チベット老僧の教え

[仏教入門]by Geshe Sonam Rinchen

 

仏教入門】【慈悲の教え】【悪業と善業】【空と縁起とは】【苦しみとは何か】【ゲシェ・ソナム・リンチェン師のプロフィール

*この教えは、亡命チベット僧ゲシェ・ソナム・リンチェン師の法話(98年4月13日)を和訳したものです。

[1]仏教入門

 人は時に、これと言う特別の原因が思い当たらないのに、心に傷みを感じたり、心塞いだりする。みんな覚えがあるだろう。特別の理由が見当たらないとき、チベット人だったら、悪霊か何かの仕業ではないかと不安になって、占い師や厄払いの儀式に走る者もいるだろう。西洋でも似たようなものがあると聞く。みんなが思うような悪霊がいるかどうかは知らないが、悪霊は確かにいる。私の言う悪霊は利己心や執着心のことだ。

 人は誰でも自己中心的で、自分のことばかりいつも考えている。これを仏教では『煩悩の魔』と呼ぶ。その悪霊は、怒りや執着として現れる。人は欲望や怒りに駆られたときには、心がさえて、いくらでもそのことを考えたりする。疲れも覚えず、楽々といつまでも考えることができる。だが、いったん何か肯定的で、人のためになることを考えると、すぐに疲れを感じ、退屈になって、明晰な状態で長く考え続けることが困難になるものだ。

 これは煩悩のせいだ。仏教では利己心や執着心を悪霊というのだが、ではこの悪霊は一体どこから来るのか?
 それは、この世のありとあらゆる全ての現象への誤った見方から来る。特に自分というものが本当はどんなふうに存在しているのかを知らないことから来る。これを仏教では『無明』という。誰でも自分というイメージを持っているだろう。物心ついたときからあるものだし、慣れてしまっていて、少しも疑わない。だが、そんなものが本当にあると思っていて、そんな自分を可愛く思ったり、守ろうとしたりするから、自己中心的になるのだ。そんなものなんてどこにも無いのに、人は利己心と自己への執着の塊で、さまざまな業を積む。そして、苦しむ。
 

 何の理由もなく、心に傷みを感じたり、心塞いだりするのではない。仏教では、原因なくして結果は起きないと説く。ふいに心の痛みを感じたり、暗くなったりするのは、今までの自分の行いの結果なのだ。自分で作りあげた『自我』に対する誤った見解から、人は常に悪い行動や、言動を繰り返している。自分というイメージから常に逃れることが出来ず、利己的で周りの人々や動物を傷つけ続けている。こうして悪業を繰り返している限り、その果が身に降りかかって来ても何も不思議ではない。これは誰かが課した罰ではなく、まさに自業自得というものなのだ。
 

 過去の自分が犯した悪業が自分に降り掛かる状態を、インドの聖人ダルマラクシタは『戻ってくる鋭いブーメラン』と喩えた。自分を害する恨むべき相手、憎むべきものが、あたかも外にあるように見えるのも、自我に対する誤った見解から起きる利己心のせいだ。外界に自分を害するものが全く存在しないと言うのではない。だが、心を落ち着かせ、利己心や煩悩から離れるならば、同じ外界の敵にでもそんなに悩まされることはないだろう。
シャーンティ・デーヴァは『入菩薩行論』の中でこう説いている。
      
 野蛮なものは数限りなくいる
 みんなをやっつけることは到底不可能だ
 でも、内なる怒りに打ち勝てば
 すべての敵を撃ち破ったに等しい

 心の中の怒りさえ静めることができたら、全ての敵に打ち勝ったに等しいのだ。落ち込んだり、むかむかするときに、その原因を外に求め、あれのせいだ、あいつのせいだというのは間違っている。全ての苦しみは、今までの自分の悪い行いの報いだ。その悪い行いは、執着心や利己心から出たものだ。その執着心や利己心は、自我に対する誤った見解から来ている。そう考えて、苦しみの原因を自分の心の内に求めるべきなのだ。

 大事なのは、今までの考え、見解を改め、心を清めて態度を正すことだ。また、他人の執着心や欲を煽って、悪い行いへと誘うようなことをしないことも大切だ。これは気を付けないとよく起こることだ。仏教の瞑想の一つに『煩悩なき禅定』というのがあるが、修業の進んだ行者は、自分に煩悩が起こらないだけでなく、周りの人の煩悩をも静めることができるという。例えば、偉大な聖者のそばにいるだけで、心が静まるような気持ちになることがあるだろう。
 

 もし、完全に苦しみから解放されたいと願うなら、仏教で説く道徳的戒を守り、瞑想し、自我に対する誤った見解を改めるべきだ。自我に対する誤った見解を改めるとは、すなわち空性を理解するということだ。自我というものは、単なる思い込みに過ぎず、そんなものはどこを探しても実際には無いということを理解しなければならない。

 それは、誰に頼るでもなく、自分自身で努力して成し遂げるものだ。チベット人は、悩みを抱え行き詰まったとき、よく自分の師のもとを訪ね、助言を得ようとする。西洋ならセラピストのところに行くのだろうか。もちろん一時的には効果があるだろうが、究極的には自分自身が心の内を見て、本当の原因を知り、努力し克服するしかない。何も努力せず、ただ誰か助けてくれる人を待ったり、良いことか起こることを待つだけという態度は、問題をさらに増すばかりだ。
 

 仏教ではこんな時どうすべきか。まず仏の教えを良く聞き、その中から自分のできることを見つけ、実際に決めたことを努力して実行する。本当に教えを実行するなら、必ずその人は変わるはずだ。仏の言葉をただ読んだり聞いたりするのではなく、それを自分の経験に照らし、よく考察すべきだ。仏の教えは盲目的に信じるべきものでは全く無い。

 仏は実に様々なタイプの人を救うためにいろいろな教えを説かれた。仏のどんな短い言葉でも、その意味を真に深く考察するならば、例えば小さな穴から外を覗くように、そこから新しい広大な展望を得ることができるだろう。全ての仏の教えは、己の心をコントロールし、そして他の人もそうできるように助けることに尽きる。このことが自分と周りの人の幸せをもたらすのだ。私たちに与えらている全てのものは、この人生を良きものとするためにある。今こそ、心改めて、人生を充実したものとすべきではないのか。自分自身、周りの家族や友人、社会、国、すべての自分と関わる現象が幸いで満たされるように、 幸いの原因を今こそ積むべきなのだ。周りのすべてとの調和、親近感を産み出し、和んだ雰囲気のなかに福利を産み出すための教えとして、私は仏教ほどに明確な説明を他に聞いたことがない。だからといって、みんな仏教徒になるべきだと言うのではない。押し売りをしないのが仏教だ。仏はただ、こんな善いことをするならこんな良い結果が起こる。こんな悪いことをするなら、こんな悪い結果が起こると説かれただけで、どうしても従うべきだとか、批判してはならないとか、誰それには教えないとかおっしゃらなかった。興味があれば、聞き、試して見ればよいとおっしゃっただけなのだ。


ゲシェ・ソナム・リンチェン師のプロフィール

 1933年、チベットのカム地方で生まれる。12才でダルゲ寺にて出家。七年学んだ後に、さらなる教えを求めて、チベットの首都ラサを目指す。徒歩で二カ月半掛けてラサに辿り着き、チベット三大寺の一つ、セラ寺の僧侶となる。1959年、ダライ・ラマ法王を追ってインドへ亡命。困難な状態の中で、南インドに寺を再建し、勉学と修業を続ける。1980年、ゲシェ・ラーランパ(博士)の位を得る。1978年より、ダラムサラの図書館で仏教哲学講義を教えている。
 

講義は日曜以外の毎朝11時から12時まで行われる。約二カ月単位で講義のテキストは変わることになっているが、毎週月曜日は瞑想方法や一般的な仏教の話がある。この講話は、4月13日、月曜日の講義より起したものである。講義は誰でも受講でき、受講料は一月わずか100ルピー(約350円)。英語のトランスレーターあり。他に図書館にはチベット語クラスもある。
Library of Tibetan Works and Archives: Ganchen Kyisong, Dharamsala-176215, H.P. INDIA,
tel: 91-1892-22467



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