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[2]慈悲の教え
哀れな有情すべてを己の母と見て
このように、パンチェン・ロサン・チュキギャルチェンは『ラマ・チュパ 師への供養』の中で、全ての有情を救うために、自分の心に菩提心(悟りを希求する心)が生まれるようラマに助力を祈願している。菩提心を生むためには、まずすべての有情の苦しめを取り除き、幸せを与えたいという強い思いがいる。つぎにこれを自分の義務と感じることが必要だ。このためには彼らが苦しむことを耐え難く感じ、どうにかしてその苦しみから解放して上げたいとの慈悲の心がいる。このような慈悲が生まれるためには、すべての有情を本当に愛らしいと感じる心がいる。 それは母親が我が子を見て、可愛いと感じるのと同じような深い心よりの愛情だ。ここまでの過程は大乗のすべての教えに共通だが、このような深い愛情を生むに至る方法については、二つの教えがある。 その一つはすべての有情を自分の母親と見て、その恩を思い、恩を返したいという思いを起すというもので、例えばチャンドラキルティーが『入中論』の中で説く方法だ。もう一つの方法は、利己心を様々な問題と苦しみの因と見、利他心をすべての善と幸せの因と見て、この二つを取り替えることからこの愛情に至ると言うもので、これは例えばシャーンティデーヴァが『入菩提道論』の中で説く方法だ。『ラマ・チュパ』の中ではこの二つともの方法が合わせ説かれているが、上に引用した詩句においては特に、第一の方法であるすべての有情を母と思う、との方法が説かれている。 「哀れな有情すべてを己の母と見て」とは、母なる有情は例外なくみんな幸せになりたいと願っているのに、幸せにはなれず、苦しみたくないと願っているのに、様々な苦しみに常に出会う。これが「哀れ」だという。「すべて」の生きとし生ける有情の状況は、苦しみを避け、幸せを得たいと願いながらもこれを得られないという点で同じなのに、ある者には愛情を感じ、ある者には憎しみを感じる。この不平等な感情をまず正すべきだ。執着心より近く感じたり、憎しみの心より遠く感じたりすることを離れて、すべてに対する平等の心をまず得る必要がある。そしてそのすべての有情は自分の母なのだと言う。すべての命あるものは、今世の母親がそうであったように心よりのやさしさと愛により自分を見守ってくれた。それも一度ならず、無数の世に渡りそうであったのだ。このように思うことで、自然に恩を感じるだろう、恩を感じれば感じる程に、恩返しをしようとの思いが起こることだろう。 「いつも愛情深く守ってくれた、その恩を繰り返し思い出し」との言葉は解りやすいが、これを心から感じて繰り返し考えることが大切なのだ。そのすべての命あるものを見るまなざしは「可愛い子供を見守る母」のそれのようであるべきなのだ。でも、このような感情を生むことはそう簡単ではなかろう。ただ、そう感じたいと願っているばかりでは、何も起こらない。まず本当に、皆が苦しみに喘いでいる様子を様々に何度も思い描き、かつての深い愛情関係を思い出すことがいる。本当に好きで好きでどうしようもなく、自分にとって宝石のように大切と感じるようでなければ、真の慈悲は起こらないのだ。生きとし生けるすべての命あるものを、すぐそばに感じるようになれば、自然に慈悲の心も生まれる。実際、まわりのすべての生き物に対し近い愛情を感じることはすばらしいことだ。 もしも今世の母親に対し何かの理由であまり愛情を感じることができないときには、別に父親でも、兄弟でも、恋人でもいい。要するに今まで自分を助け育ててくれた人、恩を感じる人、一番近い愛情関係にあった人を思えばいいのだ。もちろん自分のことを嫌い、害を与えようとする敵がいないわけではないであろうが、これは一時的な敵だ。今世の敵でしかない。この世を越えた次元を私たちは考えるべきだ。 このような深い愛情がなければ、たとえば苦しむ有情を見て、心からかわいそうに感じたとしても、本当に自分からどうにかしてその有情を救おうとの強い緊急の思いは生まれないだろう。これは自分の経験に照らして理解できよう。ときにある人の苦しみをまのあたりにして、身を震わせて、涙を流すこともあろうが、だからといって必ずしもその人が慈悲を感じているとは限らないこともある。自分がその状況を見たり知ったりすることに耐えられなかったり、ただ怖いばかりのこともあろう。その者が可愛くてならず、目の中に入れても痛くないと感じるほどの真の愛情があればこそ、その者の苦しむ様を見て、すぐに自分からその苦しみを除くために何でもしようと立ち上がるのだ。この思いもある特定の者だけを対象にする時には、慈悲とは言えても<大いなる慈悲>とは言えない。一つの例外もなくすべてを包むこの<大いなる慈悲>は非常に特別のものだ。これは母親が我が子に対し感じる思いをも遥かに超えた実に崇高な思いなのだ。 この思いが「心より」偽りなくいつも自然に沸くように訓練しなけれえばならない。もちろん初めは振りをすることから始まることもあろう。「心よりの慈悲が生まれるよう、どうか私に加持を与えたまえ」とはこのようなすべての命あるものに対する心からの偽りない強い思いが自分の心に生まれ、自分の一部となるように、三宝に助けて欲しい、そのための力を与えてほしいと願うことだ。 皆さん、こんな慈悲の心を生みたいと思いますか?これはほんの短い一節で、チベット人なら毎日唱えている人も多いだろうが、本当に含蓄深く、考える材料を沢山含んでいる。この一節に、感じいって目に涙を浮かべながら唱えることがあるかもしれない。または神妙な顔をしてそのような振りをするかもしれない。みんなで唱えていて、この一節に至った時、誰か感じ入って声を震わせているような振りをするかもしれないが、少なくともその人はこの一節の意味を知っていてそうする訳だから、これも悪くないと思うのだ。初めは振りから始まるものだから。でもこの一節を唱える時にほんの一瞬でも、本当に心に感じて目が潤むようなら、すばらしいことだ。例えば怒りの場合には、ほんのちょっとした刺激に対しても、すぐに実に自然に反応してしまうものだ。一瞬の怒りは多くの徳を破壊すると様々な経典に説かれる。反対に慈悲の心は簡単には起こらないが、もし起きるなら、ほんの一瞬でもその徳の力は大きいはずだ。 慈悲の心はまず、色々な面から考えること、分析することから起こる。深く考えることも瞑想なのだ。深く考えた後に心よりの感情が沸き起こったならば、しばらくその心に留まる。できるだけその心から離れないようにする。分析的瞑想をなして心を起こした後に、静的瞑想でその心にできるだけ留まる。その心が弱まりかけたと感じたなら、また再び分析的瞑想で心を呼び戻す。このようにして、交互に二種類の瞑想を繰り返すのだ。自分たちは実はこのような瞑想テクニックに慣れ親しんでいるのだ。 例えば、普通に心地好く、静かにしている時に、何かの弾みに急に嫌なやつのこと、害を与える者のことが頭に浮かび、かつてその者が自分に対して為したこと、言ったことを思いだす。するとその者の有様がひどく醜く、はっきりと現れる。その間に次第に怒りが込み上げてくる。心がそのイメージから離れられなくなり、繰り返し、繰り返し考えているうちに、怒りの力はどんどん増す。そしてどうしても相手を害したいと考えるようになるだろう。憎しみと怒りに駆り立てられ、いますぐにでも相手を殺してやりたくなると言うわけだ。ある意味でこのように私たちはある悪しき感情を引き起こす瞑想のプロセスに慣れ親しんでいるのだ。いまはこの分析的瞑想のテクニックを良い感情、特にここでは慈悲の感情を引き起こすために使うのだ。問題は怒りは起こるだけならまだしも、すぐに消えないことだ。心を怒りから引き離すことは容易ではない。自然に居座り続けるものだ。一方慈悲の心には慣れ親しんでいないので、もし起こっても努力なしにはすぐに、消え去ってしまう。このような慈悲の心を起こすことができるなら、それは完全な悟りへの門に至ったとのこと、すべての良きものの元、人生の幸の源に至ったことになるのだ。 さて、慈悲の心を生むことについて話て来ましたが、何か心に残っただろうか?ただ、慈悲の心を持ちたいと考えるばかりでなく、実際にこのような分析的プロセスを何度も繰り返すことが大切なのだ。 |