チベット老僧の教え

[悪業と善業]by Geshe Sonam Rinchen

 

仏教入門】【慈悲の教え】【悪業と善業】【空と縁起とは】【苦しみとは何か】【ゲシェ・ソナム・リンチェン師のプロフィール

*この教えは、亡命チベット僧ゲシェ・ソナム・リンチェン師の法話(99年5月24日)を和訳したものです。

[3]悪業と善業

  

  人は実に様々な性格、能力、希望を持っているものだ。心に浮かぶ心象は、ときには水に描いた絵のようであったり、砂に描いた絵のようだったり、石に刻み込まれた絵のようだったりする。そしてその心象は、心に様々な余韻を残す。故に、煩悩による悪い感情や業は水に描かれた絵のように不安定で、消えゆくものとしなければならない。反対に、肯定的な良い感情、例えば信、親愛、慈悲、智慧、菩提心などは石に深く刻まれた絵のように、簡単には消えず、安定したものとしなければならない。このためにはまず仏の教えを聞き、聞いたことに対して何度も考え、瞑想により習慣づけることにより、心に染み込み、馴染むようにするという段階的過程が必要なのだ。 こうして、心に善なるものを深く刻み付けることができるようになるだろう。
 

 心が仏の教えと一体となった人を「仏の教えを体現する者」と呼ぶ。だが、自分の心はこちら、仏の教えはあちらに置き、その間に大きな象ほどの距離をおきながら、仏の教えをアカデミックに求める者もいる。もちろん、その者は学者にはなれるかもしれない。だが、仏の教えはその者の心に何の影響も与えることがなく、性格はいつまでも変わらないだろう。だがら、仏の教えを聞くときには、本当にそれを自分に言われたこととして受け取り、自分の限界、欠点をなくすために、また良き性格を増すために使おうと思うことが大切なのだ。だからこそ、仏の教えを聞き、考察し、瞑想するときには、正しい動機を持たねばならない。自分の心を善なるものに変えようとする正しい動機を。

 私たちは、今、素晴らしい生を与えられている。餓えや寒さといった多くの障害がなく、知力や体力を十分備え、幸運に恵まれた貴重な人間の生を得ている。そして、私たちには、ダライ・ラマ法王のような素晴らしい師がいる。また自分というものについて内観する時間もある。もし、このまたとない貴重なチャンスを利用せず無駄にしてしまったならば、後にひどく後悔することになるであろう。今、あなた方は、枝分かれた道の分岐点に立つ者なのだ。自らの意志で、将来をより良くすることもできるし、悪くすることもできるのだ。
 

 まず、今、自分が置かれている状況をしっかりと認識せねばならない。そして、正しい決断をなさねばならない。幸せな未来を得たいと思うならば、今この時点でそのために努力するのだ。大きな問題を抱えていない今こそ準備に努めるべき時といえる。あんな状況になった時にはこうしようと心に準備するのだ。ある問題に遭遇するまで、何も考えないで過ごし、問題が起こってはじめてどうしようかと悩むときには、心は動転しており、大方手遅れといえよう。そのときに、どんなに術を探したとて、上手くいくときは少ない。前もって準備したからといって、何かを失うわけではない。そして、どんなことが起ころうとも、仏の教えはつねに良き伴侶たりえるのだ。うまく行っている時にはその幸せと利益を増加することになるし、状況が悪い時には支えとなり、解決する力を与えてくれるのが仏の教えだ。

 人生の内に様々な問題や苦しい状況に出会うとしても、仏の教えを全く知らない普通の者より耐える力があり、苦しみを味わうことが少なく、状況に適切に対処できることであろう。仏教の実践は今からすぐにはじめるべきだ。準備のために心を今から鍛えるべきなのだ。困難な状況は必ず来るし、いずれみんな死の時を向かえなければならない。いつ死ぬかは誰も知らない。また死ぬ時には、財産も、名誉も、家族も、友も、自分の身体さえ置き去りにして往くしかない。その時、準備のない人は、愛する者や我が身への執着より、心乱れ、大きな苦しみを味わうことになるであろう。準備のために執着心を捨てたとて、実際にすべてから離れ捨てることにはならないし、またその必要もない。でもこうして死の前に捨てる準備をしていることが、本当にそうなった時に大いに役立つはずだ。こうして死や避けられぬ離別について語ることは、いたずらに心を悲しくするためではない。目的は準備することにある。怖れなく、後悔なく、死を向かえるために準備するのだ。 
 

 死に対し準備せよ、執着心を捨てよ、と言う教えは仏教だけでなく、他の宗教や、宗教に関わらずとも一般的な教訓にもあるだろう。仏教においては、人生は死によって終わるのではなく、来世、来々世と永遠に続くものだ。どんな来世を受けるかは、今生の善悪の業による。業が影のようにその人の死から中有、再生のプロセスに従いゆく。
 

 故に、初めにも言ったように、悪業は水に描いた絵にように、善業は石に刻んだ絵のようであるべきなのだ。悪業をなしたとしても、すぐに悔い改め、懺悔することにより、水に描いた絵のように流れさることができるであろう。そして、善なる感情、思考、行動は、石に深く刻み込まれた絵のように堅固で安定したものであるようにせねばならない。これが仏教を行じることなのだ。善なる感情が心に強く印象づけられれているならば、死が近づいたとき、自然にその力により、肯定的な感情を持つことができるし、これが良き来世を得る大事な因となるであろう。善なるものに習慣づくことが大切なのだ。こうして序々に完全なる解放へと近づくことができるであろう。煩悩に惑わされた行動や言動を捨て去り、心が浄め清められたならば、もう二度と輪廻を繰り返すことのない覚者、仏陀となるであろう。
 
 まず、人を傷つけるような行動、言動を慎み、心は常に肯定的な善なるものに向かい、怒りや執着といった悪い感情が起きないようにしなければならない。この最も効果的な方法として、仏はまず、我への執着を捨てよと説かれた。自分かわいさの故に、自分を守ろうとして、人は時に他人を傷つける。この我への執着こそが、全ての苦しみの原因なのだと仏は説いた。そして、この我への執着は、自分というものへの誤った見方から生じると説いた。ありもしない「自分」「私」という心象、考えに縛られ、人は時に暴君として、あるいは「自分」を守る剣士として、立ち振る舞う。その「自分」「私」は存在しない、「空」なるものだと理解し、自分で勝手に作り上げた「私」という心象から自由になることが、正しい分別だと仏は説いたのだ。「私」が無ければ、「私のもの」と言って所持するものに執着することも無いだろう。「私」が傷つけらた、「私」が侮辱されたといって怒ることもなかろう。そんな「私」はどこにもいないのだから。「私」の損得を中心に行動するのを止め、人の幸せのために行動せよと仏は説く。それこそが、自分に幸せをもたらすのだ。なぜなら、「私」とは自分が思っているような固定された像ではなく、相手との関係性の中で一時的に生じ、また消えゆく無常なものなのだから。だが、こう理解するだけでは十分ではない。仏教は、そこに至高のやさしさ、慈悲を求めるのだ。
 

 だが、すぐには難しいであろう。まずは、悪いことをしない。悪口や嫌み、人を傷つけるようなことを言わないといったことから始めよう。遠い所ばかりを眺めていても仕方がない。まずは今立っている場所から、歩き始めるのだ。


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