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インタビュー『グチュスムの会』代表イシェ・トグデン
会の名前、『グチュスム』について説明してもらえますか。
イシェ・トグデン:グチュスムはチベット語で 9(グ)10 (チュ) 3(スム)を意味します。1987年 9月から1988年 3月に掛けてラサで起きた 回の独立要求デモに関係しています。 9(グ)は 9月 27日、10(チュ)は 10月 1日、 3(スム)は 3月 5日、それぞれデモが起きた月の数字をとってあります。会の名前をつけるにあたって、簡単でしかも象徴的な名前をという話になりました。グチュスムはそれにうってつけだったし、また名前の説明が会設立の説明にもなります。
もちろん、今までにたった 回だけデモが起きたわけではありません。でも、1987 年 9月 27日のデモは、中国の統治以来初めての大規模なデモで、それに続く一連のデモの先駆けとなったものです。これ以前には全くありませんでした。今でも毎年この日を記念して行事とデモが毎年インドで行われます。
9月 27日のデモはラサ三大寺のひとつ、デプン寺の僧侶たちが組織したもので、 10月 1日はセラ寺、 3月 5日はガンデン寺の僧侶たちが行ったものです。
『グチュスムの会』はどんなふうに始まったのですか。
1990年冬、ダライラマ法王がベナレスにチベット大学の落成式とカラチャクラ法要のために滞在していらっしゃるときでした。私たち、元良心の囚人として監獄体験をした者33人が法王との謁見に望むことになりました。尊敬を示すカタ(白い絹)とチベットの監獄で編まれたミサンガを差上げて、長寿をお祈りいたしました。その後、デリーでこの33人の仲間は中国の高官の訪印に対してデモを行いました。このとき、いくらかの寄付を得ることができましたが、微々たるものでした。それでも、この機会にまだ獄中にいる仲間たちのため、そして亡命してきた仲間たちのために会を結成しようということになりました。それがこの『グチュスムの会』です。
最初は大変苦労しました。みな辿り着いたばかりでダラムサラにある『難民受け入れセンター』にいて、住むところも決まっていませんでした。現金もほとんど無かった状態でしたので、まずはパンを作り、路上で売ることにしました。パンは近くのニュンレー寺で焼かせてもらいました。そして新年にカプセと言われる揚げパンを大量に作って売ったのが大成功で、五千ルピーの収益がありました。そして中心となる
人が、仏教論理大学に受け入れてもらうことになりました。全員僧侶だったからです。仏教論理大学では部屋と食事が用意されており、日々の生活が取りあえず安定した私たちは、三日間の会議を開き、1991年
9月 27日に『グチュスムの会』を設立しました。
設立当時の代表は、現在南インドのセラ寺で修業しているウーセル・リンポチェでした。会を設立はしてみたものの、事務所があったわけではなく、必要な書類を詰めたバックがあるところが事務所となりました。代表が移動する度に、部屋のベッドの脇に置かれました。こんな状況は
1997 年まで続きました。
初期の頃はどんな活動をしていましたか。
演劇をはじめました。この演劇の目的は二つありました。チベットの現状を知ってもらうためと『グチュスムの会』の名前を知ってもらうためです。シナリオはみんなで作りました。1959年以来の中国の統治の惨さ、恐怖政治下でどんなことが行われたか、どのようにして120万人のチベット人の命が犠牲になったか。そして1987年、デプン寺の僧侶たちが意を決して行ったデモのこと。その結果の逮捕、拷問。演劇はチベットの文化や風習がわかるようにと工夫をこらし、10日間みっちり練習した後、『チベット子供村』の講堂で上演しました。大盛況でした。
次に政府役所関係のホールで、そして『チベット伝統芸能研究所 』の大ホールでおこないました。このホールでは初めてチケットを売ることができ、このときの収益を元にデリーの難民キャンプでの上演をしました。拷問のシーンなどあまりにもリアルな熱演だったために、観客が止めに入ることもしばしばでした。観客のほとんどが涙を流し、やっている我々も本気で泣いたりしたものです。法王もビデオでご覧になられて、南インドの難民キャンプでの上演を勧められました。また、法王は会に対して援助金も下さいました。
南インドでもこの演劇は大成功で、たくさんの人々からいろんな形で援助を受けました。そのうち、1993年になるとチベット亡命政府の文部省からインド各地にあるチベット難民学校で上演してくれないかという話を受けました。インド中にちらばっている学校全部をまわるとなると最低半年は掛かることになります。その間こちらでの活動が滞るのではという危惧を抱いた私たちは全体会議を開き、私イシェ・ドクテンが新代表として一人ダラムサラに残り活動を続け、後は上演に出掛けることになりました。そのときたった千ルピー(約三千円)が会の運営費として残されたのをよく覚えています。その後ツェチョリン寺にうつりました。そこで小さな部屋をもらって会の活動をつづけました。
しばらくして、縫製の仕事も始めました。最初は 人の針子だけがいるだけでした。このプロジェクトは収益を今なおチベットで獄中にいる仲間のために服や食料を送るのが目的でした。でも予想していたようには上手くいかず、大変苦労しました。一時は閉めようとまで思ったほどです。そのうち、まとまった注文も取れるようになり、徐々に軌道にのり、今では10人の針子がいます。政治犯だった女性も働いています。
現在はどんな活動をしていますか。
人権問題を中心としたチベット語と英語の雑誌を作っています。1987年以来の政治犯のリストや拷問による死亡者リストなども今まで作りました。またチベットの現状が一目でわかる写真展を定期的に行っています。拷問道具を展示したり、デモのときの写真、監獄の写真を展示します。中国による自然破壊、伐採されて中国本土に運ばれる材木や丸裸になった山などの写真もあります。ダラムサラやインド各地にあるチベット難民学校を中心に行っています。来年はボンベイでの大きな写真展を計画しています。
現在ではルンタ・プロジェクトのおかげでルンタハウスが完成したので、オフィスも移り、メンバーも私を入れて 人が事務所で働いています。レストランも始まったので忙しくなりました。英語のクラスも行っています。レベルごとに
2つのクラスがあります。
私たちの主な仕事はチベットでの監獄の現状を把握し、釈放されたばかりのチベット人を助けることです。僧侶・尼僧は寺に戻ることが許されないため、生活の基盤を失い、大変な生活を強いられています。彼らにお金を送っています。中には拷問の後遺症で身体が不自由になった人もいます。送金は銀行を通しては無理ですから、インドに巡礼に来たチベット人にお金を託したりしていますが、別のルートもあります。またそうしてチベットに送られたお金で刑務所に毛布や服、食料の差し入れもしています。
今現在千人近くの良心の囚人がチベットの監獄に捕らわれています。その多くはデモに参加したためです。独立要求のビラを貼った者などもいます。また、ここ数年僧院ではダライラマ法王を批判するよう強制されています。法王を批判しなかった者、ダライラマ法王の写真を持っていた者も監獄に送られました。
私の弟はガンデン寺の僧侶だったのですが、1996年5 月 6日にガンデン寺の僧侶 人と共に逮捕されました。ダライラマ法王の写真を没収しに来た政府の公安に逆らったからです。弟は2年の懲役を受けました。
また、私の妹も尼僧だったのですが、1994年にデモを行ったため、3年の懲役を受けました。チベットでは政治活動をする者のほとんどが僧侶や尼僧なのです。監獄では食事は乏しく、常に栄養失調状態で過酷な労働を課せられています。仕事は主に外での肉体労働のため、仕事のない冬場は運動と称して、長時間のマラソンや軍隊訓練のようなものをさせられます。
拷問も日常茶飯事で、そのために命を落とす者も少なくありません。拷問の跡をはっきりと残す死体は両親に引き渡されることはありません。また、逆に危篤状態の囚人を親元に返すケースがあります。たとえ亡くなったとしても、刑務所側が責任を負わなくても済むようにするのです。今現在、21年の懲役を受けた尼僧ガワン・サンドルの様態が思わしくないという情報が入っています。大変心配しています。
面会も1ヶ月に1度、しかも2人しか許されません。親戚以外の人は会うことができないため、友達は面会に行くことができません。
今後はどんな活動をしようと思っていますか。
ルンタ・ハウスでの職業訓練プログラムにも力を入れねばなりませんが、同時に英語などの語学クラスも徐々に充実させていきたいと思っています。コンピューターのクラスの開講は来年春を目指しています。また、ホームページを開設して情報を広く与えることができるようにし、人権問題を中心とした出版事業も企画しています。まだ刑務所にいる仲間のためにも、インドに来ている私たちが頑張らねばなりません。
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