インタビュー:ニマ・ラマ

ニマ(チベット語で太陽の意)は35歳。ランタン谷の中心であるランタン本村ユルで小さな雑貨屋を営んでいた。家族はチベット本土出身の父とランタン谷出身の母、妻、2人の子供。14歳の息子と11歳になる娘はカトマンズの寄宿学校で学んでいる。

 

nyimaその日、ネパールにマグニチュード7.8の地震が起きた4月25日、妻と朝食を取った後、麓町のシャプルベシに用事があったニマはリュックを背負って午前10時30分にユルを出た。シャプルベシまではユルから歩いて2日。ユルには数日後に戻る予定であった。ちょうどゴラタベラという牧草地に着いたところで地震に遭遇した。

 

「地面が波打ち、私の体は前へ押されたかと思うと、後ろに押し戻され、上手く立っていることができませんでした。頭上からは大きな岩が次から次へと落ちてきて、それをよけるために岩陰に隠れたり、落石と逆の方向へ逃げたりして身を守りました。何が起きたか全く見当もつかず、地球全体にとんでもなく恐ろしいことが起きたに違いない、ここで死んでしまうと死を覚悟しました。土砂とともにヤクほどもある岩が目の前に落ちては、大きな音をたてました。地震による地鳴りと落石で、まさにこの世の終わりとも思える音が谷中に鳴り響いていました」

 

「地震がおさまった直後、ユルの方向から外国人の女性がやってきました。顔面蒼白です。『何かおそろしいことが地球に起きたんだ。大丈夫か』と声をかけたところ、『いや、これは地震だ』と返ってきました。その時初めて、自分が体験したのは地震であったことを理解しました。同時にランタンのユルは大丈夫だろうか、カトマンズは大丈夫だろうかということが頭に浮かびました。落石は続いており、この場に残るのは危険だと考え、私たちは一緒にランタンの方へ戻ることにしました。ランタンでは大きな雪崩が発生していたのですが、落石や土砂すべりの音が周りで鳴り響いていたため、私には知る由もありませんでした」

 

「ゴラタベラからランタンのユルまでの途中に少し開けた牧草地があります。外国人のトレッカーのグループが昼食を取っていたらしく、40人ほどの外国人がいました。人がたくさんいるのをみて、少しほっとしました。リーダー格の人が『落ち着いて行動しよう。余震に気を付けて、岩陰に身をひそめよう』と大きな声でトレッカーたちを安全な場所に誘導していました。トレッカーの一人が携帯でカトマンズに連絡を取ることができたようで、カトマンズの状況はそれほどひどくない、安心してほしいと周りのトレッカーたちに伝えていました。私もそれを聞いて少し安心することができました。カトマンズには子供たちが暮らしているからです。しばらくその場所にいましたが、ランタンに戻ろうという話になり、一緒にランタンへ向かうことになりました。私が唯一のランタン出身者で、他は外国人のトレッカーでした」

 

「小一時間ほど歩いたところに、ランタンを望むことができるスポットがあります。そこまで辿りついて、ランタンが遠目にみえたときに、これまでとは全く違う光景に愕然としました。村の真上にあるランタンリ峰の頂上付近から発生した雪崩とその衝撃で村のすぐ上にあった巨大な懸垂氷河が剥奪し、村の大部分を飲み込んでいるのが見えたのです。トレッカーから望遠鏡を借り、ランタンの方向に目を凝らして覗くと変わり果てた村の様子が見てとれました。ゴンパの丘からユルにかけて集落が丸ごと消えていました。奥の谷上側にかろうじていくつか家の残骸が確認できましたが、それはあまりにも悲しい、打ちひしがれる光景でした。100世帯以上もあった集落です。私の家族、親戚、幼馴染の友人、仲間たちが暮らしていた集落です。それがすべて消えていたのです」

 

「私はランタンの方に行こうとしましたが、トレッカーたちが危険だと言って止めました。数時間後に軍のヘリコプターが1台飛んできて、ランタンの上空を旋回しているのがみえました。ヘリコプターが谷に降りれば、それは人を救出しているサインであり、生き残った者がいるはずだと一縷の望みをかけていましたが、ヘリコプターが谷に降りることはありませんでした。ヘリコプターはそのまま東の方へと行ってしまいました。やがて谷の上方からネパール人が3人逃げてきました。建設工事の人夫であるという3人はランタンが雪崩で無くなってしまった、誰も生きてはいないだろうと言うのです。それを聞き、私は胸がつぶれる思いがしました」

 

「その場所には衛星通信電話が備え付けられていましたので、これを使い、カトマンズに暮らす友人に電話を掛けたところ通じました。カトマンズに暮らす子供たちが無事であることを知ってほっとはしたものの、ランタンが無くなってしまったことを友人に伝えるのは辛いことでした。友人はすぐに支援できる体制を作って駆け付ける、と言ってくれました。その電話の施設も落石により、まもなく使えなくなり、外と連絡が取れなくなってしまいました」

 

「話し合った結果、私たちはその丘で救出を待つこととし、その丘にあったヤクの家畜小屋でその夜を明かしました。トレッカーの中には落石により怪我をした者もいました。トレッカー同志で食料や水をわけあい、私もわけてもらいましたが、妻や両親のこと、親戚のこと、友人たちのことを思うと絶望的な気持ちになり、空腹を全く感じませんでした。2台のヘリコプターが到着し、怪我をしている人や女性を先に避難させました」

 

「シャプルベシ方面に向かっていた何人かのランタン出身の者が戻ってきました。その中には私の兄と甥もいました。ちょうどカトマンズの寄宿学校に甥を連れて行くところだったのです。二人の顔をみたときに涙があふれて仕方ありませんでした。ランタン谷の出身者は皆泣いていました。そして土砂崩れと落石のため、シャプルベシへの道は寸断されたことを知りました。トレッカーたちには危険だからと強く引き留められましたが、村のことが心配だったため、ランタン谷出身の男たち4人でランタンの方へ向かうことにしました」

 

「ユルに向かう途中に小さな茶店がいくつかあるのですが、どれも全壊しており、人やヤク、家畜の死体がありました。私たちはお経を唱えながら、その脇をすぎ、まずはゴンパの丘へ向かいました。途中、雪崩の氷河の上を渡らなければならないところがありましたが、拾ったピッケルを使ってそこをなんとか渡りきり、ランタンへと向かいました。私たちが暮らしていた集落の変わり果てた様子を目の前にしたとき、胸は押しつぶされ、体から手足がひきちぎられるような感覚がし、誰一人言葉を発することができませんでした。両親が暮らしていた家、私の店、自宅もすべて厚い氷河の下に埋もれ、跡形もなく消え去っていました。父、母、妻も―――」

 

「ユルの谷上側のヌムタンの丘に建設中の病院があるのですが、そこに生き残った者たちが避難していました。外国人の旅行者や怪我をした者もいました。再会を喜ぶと同時に、集まった男たちの間で谷上のキャンジンゴンパの様子を見てこようということになり、キャンジンゴンパへと向かうことにしました。キャンジンゴンパはトレッキングの最後のスポットでそこにはゲストハウスがいくつもあります。キャンジンゴンパにも多くの避難民がいました。そこでランタン出身の者たちと話し合い、これからすべきことについて話し合いました」

 

「カトマンズにヘリで救出されるまでの15日間、私たちはキャンジンゴンパとユルの間を何度も行き来しました。遺体を確認し、集めて火葬しました。外国人のトレッカー以外は皆子供の頃から知っている村人ばかりです。頭半分が押しつぶされてしまった遺体、腕や足がもげてしまった遺体、胴体だけになった遺体。瓦礫や土砂の中から遺体を集めて葬り、現金や何かお金になるようなもの、食糧があれば取り出し、一つのテントにまとめました。瓦礫の中を回り、遺体を探して確認し、葬る。その合間に、遺体を掘り起こした手を使って、生きるために食事を取る。まるで自分が『人』であることをやめてしまって『獣』にでもなってしまったような気がしました。仏教の経典にある「地獄」はここにあったのか、と思わずにはいられませんでした」

 

「同時に私には今着ている服と小さなリュック以外には何も持っていないことを知りました。チベット人は装飾品としてトルコ石や縞メノウを大切にする風習があり、私も持っていましたが、どこにあるかわからなくなってしまいました。私は雑貨屋を営んでコツコツと貯めたお金150万に銀行から借りた150万を併せて、ゲストハウスを建設する予定でした。建築資材も全てランタンに持ち運び、これから工事に取り掛かるところだったのです。全てを雪崩とともに失い、銀行への借金だけが残ってしまいました。何よりも最愛の妻を亡くし、両親も亡くしてしまいました」

 

「これからランタンはどうなるのでしょうか?ランタンに戻ることができるのでしょうか?ランタンにトレッカーが戻ってくるのでしょうか?住まいを再建するとしても、その費用はどうするのか?土地はどうするのか?問題が多くありすぎて、どこから手を付けていいのか途方に暮れています」

 

ランタン谷の被害の様子:5月28日撮影
ビデオ①ランタン本村
https://www.youtube.com/watch?v=Wej0WkW_ifE
ビデオ②ランタン本村からキャンジンゴンパ
https://www.youtube.com/watch?v=1q3gh6VnD5s
ビデオ③キャンジンゴンパ
https://www.youtube.com/watch?v=qMmCWpbNWWk