チベット証言集

The case of Bagdo

 

ソナム・ドルカ (32才)】【尼僧ガワン・ワンドン (22才)】【ジャンパ・プンツォ(71才)】【僧侶バグド (31才)
尼僧ナムドル・テンジン(29才)ダムチュ (34才)】【ロプサン・タシ (30才)
ジグメ・ギャンツォ (30才)】【ガワン・ジャムチェン (31才)


*この証言はダラムサラに亡命しているチベット難民にインタビューしたものを日本語訳したものです。

■バグドの証言
 
 

 私はチベットの首都ラサの東方、ガンデン僧院の麓にあるタクツェ地方のロンツォという小さな農村にて、1968年に生まれました。ロンツォは、標高4500メートルの山上にあるガンデン僧院へ登る九十九折の道が丁度始まるところにある村です。ロンツォからガンデン僧院までは、標高900メートルの差をその幾重にも蛇行する道を辿って登って行かねばなりません。人里離れたガンデン僧院は、十五世紀にチベットで最大の勢力を誇るゲルク派の始祖であり大学者であるツォンカパによって建立された伝統ある僧院でした。 

 私の下には、妹二人と一人の弟がいます。両親は農業を営んでいましたが、大変貧しく、物乞いせねばならないほど生活は逼迫していました。家では、大麦、大豆、ジャガイモ、大根等の農作物を作っていました。たとえ豊作の年でも、ごっそりと中国政府に税金として持っていかれてしまうため、収穫の後でも家にはわずかな量しかありませんでした。家は常に食料不足に悩まされていました。私が一四才の時、まだ乳飲み子だった妹が栄養失調で死んでしまうという悲しい事がありました。母も栄養失調だったため、十分な母乳が出なかったのです。やるせない悲しい出来事でしたが、こんなことは村では珍しいことではありませんでした。家は小さく、台所と居間の二部屋しかありませんでした。私たちは狭い居間で寝起きしていました。貧しかったけれども、両親は困っている人がいると出来る限り助けていました。村人皆から好かれ、小さな家は来客が絶えませんでした。家には、仏壇も仏画もありませんでした。その代わり、毛沢東の大きな肖像画が壁に掛けられていました。そうすることが義務付けられていたからです。
 

 家には、馬と牛が三頭づつと羊が五匹、そして驢馬が一頭いました。私は幼い頃から馬が大好きでした。同じ年頃の誰よりも馬を上手に扱うことができ、馬乗りに関しては大人にも負けませんでした。十四才の時、毎年夏に行われる乗馬大会で三位に入賞したことがあります。大会には速駆けの競争もありますが、駆け抜ける馬の上から巧みに弓を引いたり、地面に置かれたカタ(白い絹)をさっと拾い上げたりする競技もあります。私の馬は、とても美しい黒い駿馬でした。毛並みはいつも良く手入れされていたため、日に当たるとビロードのように光りました。私たちはこの馬を『テマナック』(黒い大豆)と呼んでいました。大豆は指で弾くと速いスピードで転がっていきます。大豆が転がる様に速く走るので、そう名前を付けたのです。
 

 11才になると、私は父と共に畑へ出かけ、日が暮れてしまうまで農作業を手伝わなければなりませんでした。まだ暗い朝三時に起きて、山へ薪を取りにもよく行きました。驢馬と共に山へ登り、枝を切り落としたり、木切れを拾い集めては、驢馬の背中に括り付けました。驢馬と一緒に村に戻る頃には、いつも昼食時になっていました。腹をすかして戻って来るのですが、お腹一杯食べれたことはありませんでした。
 

 村には、四年制の人民小学校が一校だけありましたが、私は13才の時に1ヶ月程通わせてもらっただけで、後は農作業の手伝いをしなければなりませんでした。私が働かなければ、家は食べていけなかったのです。学校に行きたいと思ったこともありましたが、村には私同様に学校に通えず、家の手伝いをしている子が沢山いたので、つらくはありませんでした。中にはラサに流れて乞食となる者さえいたのです。学校には一人のチベット人教師しかいなく、チベット語と簡単な計算を習う程度でした。しばらくすると学校は閉鎖されてしまいました。中国政府からの援助金などないため、教師も生活に窮してしまったのです。学校といっても設備が整っていたわけではありません。机や椅子は全くなく、生徒は家からヤクの頭の毛で作った敷物を持って行ってました。紙やペンは貴重品で、石板の上に煤と水を混ぜて作ったインクを使い、尖らした竹を用いて書いていました。本当に皆貧しく、想像を絶するような貧困の中に私たちは打ち捨てられていたのです。今でも私の村に学校はありません。当然、妹や弟たちも学校教育を受けられる筈はなく、他の村人同様、文盲のままでいるのです。
 

 時々、映画の上映がありました。もちろん村には映画館は無かったので、野外に張られた天幕がスクリーン代わりでした。暗くなると村人が集まり、中国人が持って来た映写機から写し出される中国映画に見入りました。ほとんどが戦争もので、日本軍やアメリカ軍との戦いといったものでした。後は、共産主義がいかに素晴しい成果をあげているかという類の物でした。映画の影響で、子供たちの間で戦争ごっこが流行り、私も木で銃をこしらえて、仲間たちと一緒に戦争ごっこに興じていました。それが良くないことであったと気付いたのは、僧侶になった後でした。

◆出家
 

 17才になった1985年の秋、私は出家したいと強く思うようになっていました。毎日の単調な生活、つらい農作業の中で、私は僧侶という俗世間から離れた聖なる道を歩んでいければといつしか願うようになっていました。真理を探求し、深い学問を学ぶ僧院生活がとても魅力的に見えたのです。何よりも、勉強がしたくて仕方ありませんでした。最初、両親は大切な働き手を失うことになるので反対しましたが、私の強い決意を知ると許してくれました。功徳を積み、多くの人を益する僧になるようにと何度も私に言ってくれたのを今でも思いだします。
 

 出家するために、私は父と連れ立って、長い九十九折の坂を登ってガンデン僧院のある山上に向かいました。ガンデン僧院までは、家から歩いて一時間半程掛かります。ガンデン僧院はラサの三大僧院の一つである有名な学問僧院でした。しかし、中国の侵略前は5000人以上いたと言われるガンデン僧院も300人しか僧侶がいませんでした。1959年にほとんどの建物が破壊され、1980年にようやく再開されるまで荒れ果てたままで放って置かれていました。子供の頃、時折僧院の側まで登ると、廃虚の跡に生い茂った刺草を食む数頭の牛やヤクの姿が見られたのを覚えています。一人の僧侶も、まともに残っている建物も何一つなく、ただ無残に壊れ果てた壁の残骸の夥しさから、以前の僧院の繁栄ぶりが偲ばれるだけでした。どうしてこうなってしまったのか知ったのは14才の時でした。父から教えてもらったのです。父が昔ガンデン僧院の僧侶だったこと、中国人が壊してしまったこと、そして還俗せねばならなかったことを簡単に説明してくれました。けれども詳しいことは何もわからないままでした。
 

 ガンデン僧院に着くと、ロサン・テンジンと言う僧院長のもとに通されました。僧院長は最初に「反政府活動を決してしてはいけない」と言いました。高僧たちは中国政府から、僧侶たちが反政府活動やデモに加わらないように指導することを命令されているのです。彼は、私がいかなる反中国的行動もとらず、中国の法律に従う事の保証人とされるのです。また、僧侶となるには宗教局の許可も必要でした。共産党政府は、僧侶の人数を管理し、制限していたのです。しかし、宗教局の事務所は閉まっていたため、すぐに許可を得ることはできませんでした。四ヶ月後、ようやく再開した事務所に出頭すると、「政治的活動に興味があるか? 何か活動について知っているか? 僧院の戒律を守れるか?」等の質問をされました。私は、「そのような活動は全く知らないし、僧として戒律に従おうと思っています」と答えました。まだ若く、田舎で農民として暮らしていた私は、政治には全く無知で、ただ僧となり勉強したいとの思いがあるばかりだったのです。
 翌年の三月の初め、一人の僧侶が許可証を持って家に来てくれました。旧暦で祝うチベットの正月と共に私は真新しい僧衣を着る事ができたのでした。
 

 ガンデン僧院の御堂には、ダライ・ラマ法王の写真が飾られていました。当時はまだ禁止されていなかったのです。私は、その時まで法王の写真を見たことがなく、名前すら知りませんでした。私にお経を教えてくれることになった師が、ダライ・ラマ法王だということを教えてくれましたが、よく理解できませんでした。実在する人とは思わず、なにか想像上の神のようなものだと思っていたのです。
 

◆一冊の本

 僧となると、まず文字を読むことから習い初めました。しばらくすると、私はカーラチャクラ密教堂に配属され、そこで儀軌や声明を唱えたり、砂マンダラの作り方を学びました。僧院の生活にも慣れた頃、私には、ペンジョルという僧侶の親友が出来、彼と過ごすことが次第に多くなりました。彼は、学問も良く出来た上、実に色々な事を知っていました。政治的な事にも興味があり、チベットでは発禁本であるダライ・ラマ法王の自伝『チベット我が祖国』を密かに持っていました。そのことを知ると、私は読みたくて仕方なくなり、貸してくれるように彼に頼みました。ペンジョルは、見つかれば二人とも監獄行きであることを警告し、注意するようにと幾度も念を押して貸してくれました。チベットでは、ダライ・ラマ法王の著作を読むことも、講話のテープを聞くことも固く禁じられていたからです。
 

 夜更けに彼から本を受け取ると、私は即座に部屋に戻りました。部屋の中から入り口のドアに鍵を掛け、彼に頼んで外側からも鍵を掛けてもらいました。外へ光が漏れないように窓に厚いカーテンを張ると、一本の灯明の灯りの下で静かに本を開きました。読み進む内に、内容にどんどん引き寄せられ、今まで隠されていた『チベット』が私の目の前に姿を現わし始めたような気がしてきました。中国が来る前のチベット社会の様子、チベット人の本来の自由な姿が、その本にはありありと綴られていました。それらは今の私の環境からすれば天国にも等しいものに思えました。ダライ・ラマ法王がどういう御人であるのか、どうしてチベットにおられないのかがはっきりと理解できました。それと同時に、どうして、こんなにもチベットは貧困に追いやられているか、全ての特権が中国人の手に握られ、チベット人が虐げられているのか、疑問が具体的な言葉となって後から後から湧き出てきました。私は、夢中になって読みふけりました。
 

 夜が明け始めた頃、本を読み終えると私は、灯りを吹き消しました。今までに味わったことのない衝撃と感動に包まれていました。私は、初めて真実に触れたのです。本当の『チベット』は、今までの中国のプロパガンダと大きく異なるということ、ダライ・ラマ法王は中国が言うような『分裂主義の反革命的寄生虫』ではなく、世界規模の平和を願う尊い人であること、そしてチベット人には『人権』がまるで存在しないことを。 同時に、私たち皆が何と遅れた野蛮な世界に打ち捨てられていることか、私の現実に対する認識が何と未熟だったかを思い知らされたのです。
 私は、チベットのためになにかすべきだという強い衝動に駆られていました。幸いなことに、出家僧である私には、養うべき子供も妻もいなかったため、自らの命を犠牲にすることも厭いませんでした。『他の幸せのために全てを投げ出せ』と説く仏の教え通りの生き方であると確信したからです。独立運動を行う者の大半は、僧侶や尼僧なのです。
 

 私はペンを取ると、うっすらと明るんできた窓辺に腰掛け、手紙を書き始めました。外国の国々がチベット人の自由と人権に対する戦いを支持してくれることを懇願する内容をしたためると、封筒に入れ、僧衣の袂にしまい込みました。
 朝になると" Where are you from ?"(どこの国から来ましたか)という英語を覚え、ガンデン僧院の反対側にあるノルブ山に出かけました。ノルブ山は眺めが良いので、観光客が写真を撮るためによく登る山でした。そこでうまく二人のアメリカ人観光客に手紙を手渡すことができました。このことは誰にも話しませんでした。
 

 その頃ガンデン僧院には約300人の僧侶がいました。門前には公安の派出所があり、中国当局から任命された3人のチベット人が厳しく監視していました。私が僧院に入ることを許された時の同期生は40人でしたが、次の1987年には11人のみとなり、しばらくは新期入籍はまったく許されなくなっていました。なぜなら中国当局は、デモの扇動者になるというので、僧侶、尼僧に対し警戒をしているからです。今ではその頃の友人僧たちは、僧院を追われたり、投獄されてしまいました。亡命した者も少なくありません。1996年には、法王の写真を没収しに来た中国兵に反抗したため、一人の僧侶が狙撃されて重症を負い、僧侶72人が投獄されてしまいました。さらに、50人の僧侶が僧院から追放されたのです。一体、何人の僧侶が今現在ガンデン僧院に残っているのでしょうか。投獄された僧侶の中には、10年以上の懲役の判決を受けた者が15人もいるとのことです。ガンデン僧院では『再教育』という名の下で様々な共産党教育が行われ、僧侶たちは、ダライ・ラマ法王を批判せねばならなかったと言われてます。そんな状況下で彼らはどのように信仰生活を続けているのでしょうか。胸が締め付けられる思いがします。
 

 ダライ・ラマ法王の自叙伝を読み、アメリカ人に手紙を渡した後、しばらく特別なことはなく、今までと同じ僧院生活が続きました。しかし、その本は力に満ち、私の心を強く掴み続けていました。そして時と共に益々光輝く真の宝物となっていったのでした。
 

 私は多くのことを知り始めていました。ガンデン僧院の年老いた僧侶の僧坊にしばしば出向いては、彼らに昔のことを尋ねるようになりました。彼らは私を喜んで迎かえ入れてくれ、何時間も昔話をしてくれました。中国共産党の侵略前には、ガンデン僧院は5000人もの僧侶を抱える学問寺であり、多くの学僧が研鑽を積んでいたこと。、チベット人のレジデンス運動が中国共産党により徹底的に潰されてしまった1959年に、僧侶たちは一人残らずガンデン僧院から追放され、多くは僧院の裏の北側の谷に作られた労働キャンプに追いやられたこと。そんな信じられないような哀しい話が老僧の口から語られるのでした。「労働キャンプでは、僧侶たちは皆、土地の開墾の仕事をさせられた。まるで牛のように重い鋤を引いて回ったものだ。紐を肩に食い込ませて、文字どおり大地の上を這いずり回った。見てごらん。こんなに背中が曲がってしまっているだろう。中国人たちは我々に結婚することを強制し、僧としての戒律を捨てよとも言った。経を読むことも、真言を唱えることも固く禁じられ、見つかればそれは酷い仕打ちを受けた。常に飢餓に悩ませられ、皆骸骨のように痩せ衰えてしまった。朝起きれば、隣の者が冷たくなっていることも珍しくなかった」
 

 僧侶たちが労働キャンプから出られたのは1980年のことでした。毛沢東が死去し、とう小平が復活し、宗教の自由が形式だけ認められるようになったからです。労働キャンプから解放されたばかりの僧侶たちは、ガンデン僧院の復興に早速取りかかりました。リーダーになったのは、ツルティム・ダクパという傑僧でした。彼はチベット中に声を掛け、寺を再築することの協力を呼びかけました。没収から運良く免れた金や銀の財宝がチベット全土から集まり、沢山の寄付が寄せられました。人々は無償で労働力を提供し、廃虚の跡にテントがいくつも張られました。最初は僧侶たちも一緒になって働いていたのですが、まもなく人々は僧侶に労働させることを嫌がり、代わりに自分たちが人一倍働くからと説得して経典の学習を再開することを懇願しました。そして、ガンデン僧院に久しぶりに朝晩の読経の声が響くようになったのです。
 

 人々は、まず、ツォンカパの遺体が収められていた霊塔を作り始めました。ツォンカパの遺体はガンデン僧院には残っていませんでした。一九五九年、沢山の中国兵が押し寄せて全ての仏像や仏具、仏画を略奪し、寺や僧坊を壊し始めました。全ての経典は火の中に投げ込まれ、貴重品は没収されました。そして、中国兵はチベット人が礼拝して止まないツォンカパの遺体が収められた霊塔を御堂から運び出すと、装飾に使われていた金銀、トルコ石、ラピス、真珠等を奪い取った後、ツォンカパの遺体を焼くように僧侶に命じたのです。銃を突きつけられ、そう強制された僧侶たちは泣く泣く実行に移さねばなりませんでした。だが、一人の学僧が手の一本の親指を袂に密かに隠すことに成功し、それだけが灰になってしまうことを避けられたのです。彼は大事に隠し持っていた親指を再び収め、霊塔が出来上がりました。やがて霊塔を安置する御堂も出来上がりました。二十年間ものあの惨たらしい時代を通して、どんな迫害にあってもチベット人たちは信仰を捨てたりは決してしませんでした。仏壇も許されず、お経を唱えることも、葬式の読経すらも禁じられ、僧侶が寺から消えてしまった時代。チベット人たちは、それでも心の奥底に灯明をひっそりと灯し続けたのです。ガンデン僧院の再建が始まると、村人たちは協力を惜しみませんでした。村からツァンパを持ち込んで、テントに泊り込み、工事に精を出したのです。腕の良い大工、絵師、彫像師、鋳造師が喜んで名乗り上げました。中国は、ガンデン僧院の再建を自分たちが費用を出したような事を言っていますが、全ての費用はチベット人の布施に依るものです。強いて中国側が負担したものを指摘するならば、それは霊塔を安置する御堂の黄金の屋根です。それも彼らが壊し、無残に解体した仏像の残骸をどこからか持ってきて、再び叩き延ばしたに過ぎません。中国は寺の再建に難色を示し、幾度も妨害や邪魔を入れ、中止命令を出しましたが、村人や僧侶たちはその度に勇敢に立ち向かいました。1983年には何らかの理由を付けてツルティム・ダクパを始めとする中心の僧侶たちを投獄しました。それでも人々はめげずに再建をなんとか続けたのです。
 

 ガンデン僧院の老僧たちは、皆過酷な体験をした者たちばかりでした。そして今でも状況が好転してきたとは思えません。一体いつになったら彼らに、私たちに自由と平安が訪れるのか。不安や圧政、抑圧から解放されるのか。老僧たちからそんな話を聞く度に、彼らが味わった辛酸を思い、泣けてきて仕方なくなるのでした。
 
 1987年の新年、実に27年ぶりに大祈祷法会がラサのツクラカン(総本山)にて開かれました。千人以上の僧侶が集まりました。十日間に渡って繰り広げられるこの大祈祷会は、1409年にツォンカパによって始められた法会です。一年の中で最も大きな宗教行事であり、同時にゲシェ(博士)の最高学位であるラーランパの試験も行われます。この試験を受けるためには、論理学、般若学、中観学、アビダルマ、律といった仏教哲学に深く通じていなければならず、そこまで到達するには最低でも17年掛かります。試験は問答形式で行われ、全ての問いに対して、論理の一貫性を保って完璧に答えなければなりません。また、逆に問う側にもまわって、対論者の矛盾を突き、言葉に窮するまで問い続けなければならないのです。本当に深い知識が必要とされ、論理学に長けていなければゲシェにはなれません。学僧としての最高の地位であり、名誉なのです。その年、チベットに久しぶりに新しいゲシェが誕生しました。中には、20年近く監獄に入っていた高僧もいました。何十年もの間、吹き消されていた法灯に再び火が灯されたのです。私は嬉しさで一杯でした。

◆自由を求める叫び
 

 1987年9月21日、ダライ・ラマ法王が、米下院人権問題小委員会でチベットの将来についての和平五項目案を提案したというニュースがラサに入って来ました。和平五項目案の内容はチベット内においても大きな影響を持つものでした。

一、チベット全土を平和地帯に変えること
二、一民族としてのチベット人の存在そのものを脅かす中国人の人口移住政策の廃止
三、チベット国民の基本的人権並びに民主的自由の尊重
四、チベットの自然破壊の回復と保護並びに、核兵器生産にチベットを利用することを止め、核廃棄物の処理場とすることの禁止
五、チベットの将来の地位並びに、チベットと中国国民の関係についての真剣な話し合いの開始
 
 この和平五項目案に促されたかのように1987年9月27日、デプン僧院の僧侶21人によるデモがラサ市街にて起きました。文化大革命以来始めてのデモだったため、ラサ大本山(ツクラカン)を巡る右繞道(パルコル)に突然現われたチベット国旗を持つ僧侶たちの集団を、民衆は唖然としてただ眺めるだけでした。彼らは『チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳!』と唱えながら、パルコルを行進し、五周した後、逮捕されました。
 

 続く10月1日、今度は40人のセラ僧院の僧侶によるデモが起きました。だが、警察は即座に反応し、僧侶たちを殴打し、警察署に引きずり込んだのです。その光景を目のあたりにした民衆は、僧侶たちを助けんとして警察署へ押しかけると火を放ち、燃え盛る中に飛び込んで、僧侶たちを救い出しました。けれども、中国側は民衆に向かって銃弾を発砲し、20人のチベット人が死んだと言われてます。私は大変驚きましたが、わが身を捨てた、その貴重な勇気を賛えずにはいられませんでした。そして、私も今こそ行動を起さなければ、祖国チベットとチベット人のために何かをしなければという強い決意にますます駆られていったのです。それは、他の僧侶にとっても同様でした。
 

 セラ僧院の僧侶によるデモの次の日、10月2日に、60人程の警官を乗せた7台のトラックがガンデン僧院にやって来ました。デプン僧院、セラ僧院からデモが続いたため、残るラサ三大僧院の一つであるガンデン僧院に警告しに来たことは、間違いないようでした。中国政府は、わざわざチベット人警官を選んでよこしていましたが、私たちは彼らの反革命行動が如何なる結果となるか等の警告に全く耳をかしませんでした。
 

 次の日の正午頃、彼らは再び僧院にやって来ました。今度は、3,4台の軍用トラックに100人程の武装警官も一緒でした。彼らは昨日同様、共産主義思想の正当性、分離思想の危険性、そういった行動に対する厳罰などについてえんえんと語りました。その夜、5,60人の警官が僧院に泊り込みました。
 

 次の日から立て続けに20回ほどの集会が開かれました。私たちは、共産党新聞を元に様々な質問に答えるように強制され、共産党がチベット人に与えた『恩恵』について考えるように指導されました。彼らは、宗教の自由を与えたこと、僧院に援助金を出していること、中国共産党が大変親切であることを繰り返し説きました。そして「チベットと中国は母と子の如くに一つの国であり、離れることが出来ない、故に分裂主義者は抹殺されるべきである」と何度も言うのでした。
 「チベットの独立などを望んでいる者は、少数に過ぎない。大多数のチベット人はこのままの中国共産党による統治を望んでいるのだ。一体何の不足があるのか。チベットには宗教の自由もあるではないか」
 彼らはそう強調しました。もちろん私たちはそんな主張を認めたりはしませんでした。逆に、中国の主張が虚偽で満ちているのをあからさまに知ると、私たちは警官の意思に反して団結するようになったのです。チベット独立の正統性に対して疑いを抱くものは一人としていませんでした。私たちは「宗教的自由とは単にお経を唱えることが出来、佛に供養物を捧げる事が出来、僧院を再建することが出来ることではない」と反論し、中国は数知れない僧院々を破壊し、神聖で貴重な品々を略奪し、法王への信仰を禁じていることを指摘しました。そして、これらの行為に対し、中国政府が『親切』という言葉が語られる論理を示して欲しいと詰め寄りました。「私たちは、ただ人としての最低限の権利を得たいのだ。かつてチベットで自由に行われていたあの素晴しい信仰を取り戻したいのだ」私たちはそう主張し続けました。
 

 全体集会が続いた後、今度は幾つかの小グループに分けられ集会が続きました。私の中の中国に対する怒りの心は、もはや抑え難きものになっていました。多くの僧侶にとって、この政治集会はチベットの現状を気付かせ、正義に目覚めさせる機会となってしまったのです。幾つかの僧侶グループの間に秘密の会話が持たれるようになりました。
 

 政治集会が終わると、中国当局は僧院内に警察の派出所を作ろうとし始めました。大きな四十人程の警官の詰所と宿舎、それに隣接して刑務所を作るという計画を知った時、私たちは憤りました。その夜、僧侶全員が集まり、抗議文を作成しました。だが、中国側は全く取り合おうともせず、連絡システムのための電線を引き始めました。そして、基礎を堀始め、建設に着工したのです。私たちは、抗議し続けましたが、構わず工事を進める中国側にしびれを切らした数人の僧侶が連絡機の一部と発電機を壊してしまいました。その夜、兵士を満載した二十台の軍用トラックがガンデン僧院を包囲するように配されました。土嚢の陰からは、四十台程のマシンガンが向けられているのが見えました。
 

 その夜も、いつものように弁証法討論が行われることになっていましたが、私たちは全員部屋に閉じ篭ったままでした。次の日、兵士たちは帰っていきました。彼らは脅し威圧することで、私たちのこれ以上の抗議を阻止したのでした。
 

 次の日には、僧侶全員が集められ、大きな集会が開かれました。自治区長官であるテェン・イーが来ていました。「デプン僧院とセラ僧院の僧たちが中華人民共和国を害する反動的行動を行ったが、ガンデン僧院のものは決して同様の行動を起してはならない」と強い口調でテェン・イーは怒鳴りたてました。「一部の反革命分子が起こした行動は、もう終わろうとしている。山の頂上に到着してしまったら、後は降りる以外には道はない。今の状況は丁度それと同じだ。降りようと思うならば、簡単に降りれる。だが、さらに上に登ろうとするならば、行き場を失って落ちてしまうだけだ。落ちる先は刑務所だ。登りたい者は勝手に登るがいい。刑務所に空いている部屋は沢山あるからな」テェン・イーは薄笑いを浮かべて、こう言うと満足気に帰って行きました。

◆大祈祷法会のボイコット
 

 1988年の新年の大祈祷法会を開催するかが話題になっていました。通常、大祈祷法会は太陰暦元旦の十日後より始まります。中国政府は、チベットの状況が正常に戻ったことを外の世界に偽るために僧院側にあくまで行うように強制してきました。彼らが、人々の幸せを祈願するために大祈祷法会を開催するのではないことは明らかでした。ただ、チベットの宗教の自由と人権が正しく守られているようにアピールする演出に過ぎませんでした。一月から二月に掛けて、中国当局はガンデン僧院の僧侶たちが大祈祷法会に参加するように何度も説得の会合を設けました。私たちは、中国側の巧みな宣伝に利用されるのはまっぴらでした。それに、デプン僧院、セラ僧院の僧侶たちが監獄にいるのに、とても法会なんてする気にはなれませんでした。また、ガンデン僧院のゲシェ、ユーロ・ダワ・ツェリン(60歳)も1987 年12月に逮捕されていました。ユーロ・ダワ・ツェリンは深い学識を持つ有名な高僧でした。1959年に投獄され、79年に釈放されてからは、西蔵大学の哲学科で仏教哲学の教鞭を取っていました。1987年8月、イタリアのテレビ局にチベットの状況を語ったことが逮捕の理由でした。「中国が言うような宗教の自由なんてチベットにはありはしない。チベット人は中国共産党の『解放』により幸せにもならなければ豊かにもなりはしなかった。物価は上がるばかりで、人々は貧困に喘いでいる」ユーロ・ダワ・ツェリンが語ったことは、事実を歪めたのでも、嘘でもない、ただチベットのありのままの姿でした。
 

 「私たちは大祈祷法会に決して行かない。言葉だけの宗教の自由ではなく、真実の意味での自由が欲しいのだ」「そんなに祭がやりたいのならば組織は大きいことだし、自分たちでやればいいではないか」「チベットには宗教の自由があるといつもラジオで聞かされているが、そちらの自由とは何なのかを示すために、軍服姿で揃って法会の行進をやったらいいではないか」
 私たちは断固として拒否し、いかなる説得にも応じませんでした。彼らは懐柔策にでも出たのか、僧侶一人づつに三十元(約四二〇円)という大金を配ったりもしましたが、私たちは法会を行うのを断固拒否し続けました。
 

 だが、中国当局は、私たちの尊師(ラマ)であるイシェ・ワンチュク師とロプサン・ギャンツオ師を大祈祷法会執行の責任者とし、開催しない場合には二人を投獄すると脅してきたのです。
 イシェ・ワンチュク師は、1987年の大祈祷法会の際に行われたゲシェ・ラーランパの試験を一番の成績で通った高僧でした。セラ僧院の僧侶でしたが、ガンデン僧院にも教えに来ていました。学識のみならず、優しく徳のある立派な人格者である彼は、全ての僧侶から慕われていました。イシェ・ワンチュク師は、ガンデン僧院の僧侶が従わない場合には投獄すると当局に脅されて、ガンデン僧院に説得しに来ました。もう、私たちは彼らに従う以外に術はありませんでした。イシェ・ワンチュク師は、皆の前で大祈祷法会に参加する以外に術がない事を話しながら泣いていました。私たちも堪らなくなって、涙が止まりませんでした。私たちは結局中国の言いなりになるしかないのだ。私たちに自由はないのだ。悔しさ、悲しさが込み上げ、皆いつまでも泣いていました。
 

 大祈祷法会の前日、陽が暮れてしまった頃、私たちは密かに集まりました。チベットの守護神、パルデン・ラモの像を前に、命を賭けても中国共産党の真の姿を暴きだそうとの誓い、声明文を読み上げました。
 『私たちは、革命とか、共産主義、改革に反対するのではない、もちろん中国人を糾弾するのでもない。法に反し他国を武力で侵略した事に対し、真理の戦いを挑むのだ。私たちチベット人にも、平等、公正の権利があり、祖国に対し自決権を持つ。チベットの将来の方向について、チベット人自身が決定できるために、私たちは訴える。チベット六百万人の悲願が叶えられる日まで、私たちは決して戦いを止めない』
 

 全員が胸の前に小さなポシェットをぶらさげ、中に守護の祈願式に使われる米つぶとダライ・ラマ法王によって加持された小さな特別の丸薬を入れました。その丸薬は、死が本当に近くなった時に飲めば一瞬にして法王の慈悲の力に満たされ、浄土に生まれ変わると信じられていたからです。首には赤いお守りの紐を互いに結び合いました。
 

 その日の朝が来ると、いつもは中国人高官たちの移動用であるエアコン付きの20人乗りのバスが四台到着していました。しかし、私たちは普通のバスで行くからそんな豪華なものは必要ないと断わり、4台のオンボロバスに50人ずつ計200人がラサまで乗っていくことにしました。夕刻、ガンデン僧院を出発し、黄昏ていく空の色をバスの車窓から眺めながら、私たちは一言も言葉を交さず黙っていました。デモの結果として受けるであろう仕打ちを考えるとき、底知れない恐怖が胸をよぎりましたが、僧侶である自分に失うものは何もないように思えました。自分たちが行動を起さなければ、一体他に誰が為し得るのだ。例え、犬死にする結果に終わったとしても、いつか必ずや実を結ぶであろう。それは虐げれているチベット人のため、祖国のためなのだという思いが強かったので、 私たちの決意は固いものでした。
 

 約3時間後、貴族の家だったナン・モモというガンデン僧院の僧のための宿舎に到着しました。翌朝から大祈祷法会に参加しましたが、他の僧院からは、真新しい若い僧のみが参加していました。大祈祷法会に参加すれば僧籍が当局から与えられることになっていたからです。投獄されていたデプン僧院とセラ僧院の僧侶たちは、この大祈祷法会の直前に、パンチェン・ラマが取り計らってくれたためほとんどが監獄から出され、僧院に帰ることが出来ていました。私たちが参加した次の日、残りのセラ僧院の僧侶のほとんどが法会に加わり、次の日少数のデプン僧院の僧侶たちが来ました。
 

 ラサのチベット医学院の前には何千人もの武装した軍隊が構えており、会場となるラサのツクラカン(総本山)の正門前には千人を優にこすほどの警察隊が防具を付けデモに備えていました。ツクラカンの屋上やあたりの建物の屋上には多数の機関銃と兵士が見え、ビデオカメラを装備した警報システムが私たちを監視していました。日本製のテレビの中継車が、ツクラカンの入り口の脇に置かれてあり、大祈祷法会は全中国に同時中継されることになっていました。そんな厳戒体制のもと、大祈祷法会は進められたのです。
 

 けれども、私たちは決して怯みませんでした。大祈祷法会の最後の日に行われる彌勒菩薩勧請の儀式が終わった後に、行動を起こすことになっていました。聖なる祈祷法会を汚さないためにも儀式の終わりを待とうということだったのです。
 

 ところが、儀式の終わる2日前の3月3日、ジャンパ・プンツォというタシチョリン寺の僧侶が読経の最中に突然立ち上がり、声を揚げて叫び始めたのです。「チベットは真に独立した一国である。チベットの主権はチベット人にある。中国人は中国に帰れ!ダライ・ラマ法王に長寿を!」彼の突然の叫び声は、あたりに響き渡りました。皆が一瞬緊張し、張り詰めた空気が流れました。彼に続く者は誰もいませんでした。皆、大祈祷法会の最中に事を起す事で、凶なことが起きるのを恐れたからです。だが、彼の捨て身の行為に私たちは大いに勇気付けられ、必ず実行しなければと思わずにはいられませんでした。
 

◆1988年3月5日、デモ実行の日
 

 大祈祷法会の最終日、デモを実行する日がやって来ました。朝から僧侶たちの間には、重々しい緊張感が漂っていました。最後の祈祷を終え、僧院の外へ出てみると、本堂の正面広場や建物の屋上、右繞道の両側は完全装備の公安部隊で埋っていました。私はそれを見て初めて本当に死を覚悟しました。急いでガンデン僧院の僧侶の集まる宿舎に戻り、そこで他の何人かの僧と一緒に僧衣を脱ぎ、俗人の服に着替えました。時は迫っていました。私はもう一度、確かに胸にお守りがついているかを確認し、祈らずにはいられませんでした。
 

 大本山(ツクラカン)に戻ると、 最後の彌勒菩薩勧進の儀式が丁度終わるころでした。トラックに乗せられた大きな彌勒菩薩の仏像は、すでにツクラカンの周りのパルコル(右繞道)を一周し、本堂に戻されようとしていました。トラックには沢山のカタ(白い絹)が投げ掛けられ、彌勒菩薩は白いカタで埋り、運転席も見えない程でした。勧請の儀式も終わると、外の広場で歌舞が始まりました。辺りは大きな人垣で埋め尽され、ツクラカンの屋上からも沢山の人が歌舞に見入っていました。
 

 初春を思わせる柔らかい日差しが降り注ぐ中、歌舞会は予定通り進められて行きました。中国の官僚たちは、何も起きることなく無事に済んだと胸を撫で下ろしていました。だが、突然の僧侶たちの叫ぶ声で彼らの安堵感は、恐怖に変わっていったのでした。
 

 ガンデン僧院の僧侶、テンパ・ワンダック(49)、タシ(20)、ギャダル(35)、パッサン(22)、ソナム(19) の5人は、自治区省長ティン・イーがパルコルを回って来るのを待ち受けていました。ティン・イーは、お香を手にしてパルコルを得意そうに行進していました。彼らは、突然群衆の中から飛び出すと、ティン・イーの肩を掴み、詰め寄りました。
「チベットは中国ではない。チベットは独立国なのだ。我々はユーロ・ダワ・ツェリンの釈放を要求する。今この場で、ユーロ・ダワ・ツェリンをすぐ釈放することを認めろ」
 激しい口調に、ティン・イーは立ち登る香を握ったまま、黙って何度も頷きました。すぐに、護衛の兵士が中に入り、ティン・イーを連れ出すや否や、五人は一段高くなっているツクラカンの境内に登ると、群衆に向かって拳を高く降り上げ、叫びました。
「チベットに自由を!中国人は中国に帰れ!ダライ・ラマ法王に長寿を!」
 彼らの発したシュプレヒコールは、瞬く間に広場全体に駆け巡り、あちらこちらから声が上がりました。「チベットに自由を!中国人は中国に帰れ!ダライ・ラマ法王に長寿を!」私も大声で叫び続けていました。涙が溢れて止めることが出来ませんでした。「チベットに自由を!」と何度も繰り返しながら、やっと本当のことが言えるという思いで嬉しくて仕方ありませんでした。私たちは、すぐにパルコルへ飛び出て、スローガンを叫びながら行進し始めました。一周三十分程のパルコルはすぐに溢れんばかりの人で一杯になりました。僧侶のみならず多くの市民も加わり、「チベットに自由を!」と叫ぶ何千という群衆は皆上気して、互いの顔を見ては微笑み合いました。皆、この機会がたまらなく嬉しかったのです。
 

 警官たちは、群衆を棍棒で殴りつけまわり、電気棒で蹴散らそうとしましたが、私たちは決してひるみませんでした。催涙弾が浴びせられましたが、それでもデモに加わる人の数は増えるばかりでした。一周した頃、何の警告もなしに突然銃声が辺りに響いたかと思うと、すぐ傍でカムの男性が頭を撃たれて倒れたのです。頭からは夥しい血が流れ、彼は既に息を引き取っていました。何人かの男たちが彼を板に乗せるとそのまま担いで、いっそう声を上げて「チベットに自由を!中国人は中国に帰れ!」と叫びながら歩き出しました。私たちはもう怒りを抑えることはできませんでした。石の飛礫が降り注ぎ、銃弾が弾ける中、私たちは構わず行進しつづけたのです。テレビカメラが屋上や、建物のあちらこちらから私たちを捉えていました。
 

 しばらくすると挑発された何人かがテレビカメラに向かって投石し始めました。大量の催涙弾と銃弾が嵐のように私たちの上を襲い、興奮状態になった私たちも警官たちに石をなげつけました。私は、あたりの群衆とともに近くの中国人経営の商店に踏み込み、商品に火を付けました。日頃から差別され虐げられている市民は、商店主の中国人を追いかけ、中国に帰れと叫びました。辺りは催涙弾の白い煙と火を付けられた数台の車から黒い煙が昇っていました。銃弾は雨のように降り掛り、バタバタと人が倒れ血の匂がして、私はまるで地獄の様を目のあたりにしているようでした。逃げ惑う人、殴打され引きずられながらトラックに次々と投げ込まれる僧侶たち。ある僧侶は頬から口にかけて、傷口がぱっくりと裂けており、服が血だらけになっていました。足を折られた者、頭に傷を負った者、皆本当に酷い状態でした。それでも頭を下げて一列に並ばされ、端から「イー、アール、サン、ス」と順番にまるで死体を扱うかのようにトラックに投げ込まれていました。折り重なった僧侶たちの呻きがトラックが発車するまで聞こえていました。
 

 ツクラカンのお堂の中に逃げ込んだ僧侶たちにも、否応無しに銃弾は浴びせられ、御堂の中は血の海と化しました。僧院の屋上で何人かの僧侶が警官ともみあっているのが見えました。彼らは必死で抵抗し続けていましたが、やがて無残にも突き落とされてしまったのです。悲鳴、呻き、中国兵の罵倒の声、辺りは文字通り阿鼻叫喚の様でした。
 

  やがて、私はどこからか飛んできた石が頭に当たり、ひどく出血し始めたのに気付きました。私は路地に逃れようと建物と建物の間に入りましたが、突然非常に強い力での体が抱きしめられ引き戻されました。すると同時に、目の前には大きな石がドォと落ちてきたのです。上から数人の兵士が大きな石の塊を私めがけて落としたのでした。一瞬、私に一体何が起きたのか分からず、砂煙の立ち上る中でただ呆然としていました。振り向くと、中年の女性が立っていました。彼女はにっこり笑い掛けるとそのまま路地のどこかへ消えて行ってしまいました。お礼を言う間もありませんでした。
 

 私は今も、命を救ってくれたこの女性はラサの守護尊パルデン・ラモの化身だったと信じています。チベット亡命政府はこのデモによる死者は50人、逮捕数2500件と断定しています。ガンデン僧院からは170人の僧侶が刑務所に送られました。ツクラカンの中では少なくとも12人の僧侶が虐殺され、その1人は両目をえぐられ屋上から突き落とされて死亡したのです。
 

 その路地を出た途端、出血のせいなのか、意識が急に薄れ路に倒れ込んでしまいました。気が付いた時には、ガンデン僧院の僧侶のための宿舎で寝かされていました。誰かが運んでくれたのでしょう。隣には怪我をした僧侶たちが横たわっていました。呻いている者もいましたが、もう意識の無くなっている人もいました。私は皆が止めたのにも関わらず、デモを続けようと再び外へ飛び出していきました。
 

 午後3時頃、チベット人たちが「中国人の警官が一人死んだぞ」と言い始めました。噂はまちまちで、ある者は石に当たって死んだと言い、ある者は建物の上から落ちたと言っていました。この時点で30人以上のガンデン僧院の僧侶が逮捕されていました。まだ、デモは続いていましたが、僧侶の多くは僧院に引き上げることにしました。私も一緒に、いったんガンデン僧院の僧侶のための宿舎に戻ることにしました。途中、例の中国人の警官の死体が道に横たわっているのを見ました。
 

 宿舎に戻ると皆僧衣は血に染まり、憔悴しきっていました。私は、まだ軽いほうでしたが、それでも右足は投石を受けたため膨れ上っており、踵からの出血で靴の中は血だらけで、腕も同様に赤黒く腫れ上がり出血していました。何よりも額に受けた傷からは、どうしても出血をとめることが出来ませんでした。

◆再びラサへ
 

 日が暮れてしまってから、私たちはガンデン僧院に戻りました。次の日の朝、傷の手当を済ますと、私は僧院務長にしばらく僧院を離れる許可を得ました。ラサに傷の薬を買うためと可能ならばデモを再び続けようと思ったからです。ラサへ向かうバスの中から、ガンデン僧院に登ってくる二人の妹の姿が見えました。きっと、ラサでのデモの事をラジオで知り、私の安否を気づかって逢いに来たのでしょう。見つかれば引き留められると思って、私はシートの中に深く身を沈めました。家族や彼女たちの心情を思うとき、胸が強く締め付けられましたが、私は行かないわけにはいかなかったのです。
 

 ラサの一歩手前でバスを降り、僧衣を脱いで用意していた市民服に着替えました。ラサに戻ってみると、道はいたるところ兵士で埋っており、沢山の土嚢とマシンガンが見られました。私はチベット医学院の傍を通り中心街に入っていきました。
 パルコルに着くと早速兵士に呼び止められました。彼は私の引きずる足を見ると「その足はどうしたのだ」と聞いてきました。「パルコルに住んでいる者ですが、昨日の騒ぎで足を怪我してしまい、病院に行って来ました。今、家に戻るところです」と答えると、そのまま通されました。パルコルでは早速傷の手当のためにインドの薬を買い、その場でバターと一緒に傷に塗り付けました。兵隊たちがあちこちで一団となり、建物に踏み行っては中を捜索しているのが目に付きました。まだ、デモは完全に鎮圧された様子でもなく、警官との衝突も見受けられました。チベット人が二人以上でいるとすぐに警官が飛んでくるので、私は一人で行動するしかありませんでした。
 

 その夜、私はツクラカンの門前の階段の上で寝ることにしました。寝具も何も無く、寒くてほとんど寝られないまま朝を向かえました。明るくなってしまう前に、私はそこを離れ中央マーケットの方へ向かいました。足は、前日よりひどく腫れ、硬直して歩くのもやっとでした。足を引きずって、ようやくマーケットに辿り付くと、私は全財産の200元(約2400円)の中から数日分の食料を買いました。
 

  マーケットの人々から、ガンデン僧院に警官が入り僧侶たちを逮捕しているという噂を聞き、しばらくこのまま隠れることにしました。私が足を怪我していることを知ったチベット人たちは、薬を買ってきてくれて毎日手当をしてくれました。また、僧侶であることを知ると、女に変装した方が安全だと言って、どこからか女性用の服を持って来ました。私は、女性の服を着せられてイヤリングを付けられた上、口紅まで塗られてしまいました。私は自分の妙な格好が恥ずかしかったのですが、皆チベット人たちは親切にしてくれ、そのまま、一ヵ月程も外に寝起きして暮らしました。
 

 中国当局はもう私を個人的に探し出そうとしていました。私の友人の僧侶たちは、既に捕えられ監獄に入れられたようでした。当局はデモの時の写真を片手にかたっぱしから捜索していました。運よく、医師たちに救われた僧侶たちも例外ではありませんでした。重傷を負いベッドから起き上がれない状態でいる僧侶たちを、中国兵たちは無理やりに叩き起こし連行して行ったのでした。

◆逮捕
 

 一ヵ月程経った四月の半ば頃、私は家族の事を友人から知らされ、いてもたってもいられなくなりました。兵士を満載した三台のトラックが実家に来て、家中を捜索したというのです。両親たちは外に追い出され、部屋の中を無茶苦茶にひっくり返す間中、石の上に跪いて待たされたということでした。彼らは私が家にいないのを知ると、一週間のうちに必ず見つけ出して引き渡すようにと両親に命じました。そして、私が反動的分裂主義者であり、父や母に直接責任があるとなじりました。父は「息子は自分の意志で僧侶になって出家した者で、この家にはもう帰って来ないだろう」と答えました。だが、一週間後には私の捜索の責任は地区委員会に任され、彼らは連日のように両親を責めていたのです。
 

 私はとても耐えられませんでした。両親が私がやったことのために苦しめられていると思うと申し分けなくてたまりませんでした。私は4月17日の夜中にラサを離れ、次の日の早朝には家に戻りました。家族は皆私の姿を見るなり、声を上げて泣き出しました。私は心が潰れるような思いで一杯になりましたが、両親は「チベットのためにやったのだから、何も謝ることはないのだよ」と言ってくれました。だが、ゆっくり話をする間もなく、八時半には警察が早くもやって来たのです。
 

 私が家に帰ったことは家族と親しい友人、少数の村人しか知らないはずなのに、どうしてこんなに早くやって来たのか不思議で仕様がありませんでした。二人の警官が私に近づくと名前を聞きました。一人は中国人、一人はチベット人の警官でした。私が名を告げると、彼らはすぐに拳銃と手錠を突き出しました。私は「銃も手錠も必要ありません。真理のためにやったんです。覚悟は出来ています」と言いました。すると顔をしたたかに殴られ、私は倒れ込んでしまいました。「大口たたくな!立て!」と彼らは怒鳴り、胸元を掴み上げると首の後ろを拳で強く殴りました。手錠をはめられ、連行されて行く私に妹たちは泣きながら何度もしがみついて来ました。私には、泣きじゃくる妹たちをどうすることも出来ず、ただ「心配しないで。すぐ戻ってくるから」と慰めるしかありませんでした。車に乗せられ、ドアが閉められても、妹たちが私を呼ぶ声は聞こえてきました。車がガンデン僧院へ向かって走り出してしまうと、妹たちは必死で追いかけて来ました。けれども、私たちの距離は離れていくばかりでした。
 

 ガンデン僧院まで着く間、私はこれから起こるであろうことを考えていました。不安がなかったわけではありませんが、覚悟は出来ていました。チベットは独立国なのです。中国ではないのです。真理のために行った行為の結果なのだから、どんなことをされても構わないと思ってました。はめられた手錠は、動かす度に一段づつ内側に食い込んできて、だんだん締まってきました。しばらくすると、両手の指の爪が鬱血してきました。ガンデン僧院に着くと、同じように今日逮捕されたらしいカム(東チベット)出身のペンパ・タシがいました。
 

 ガンデン僧院のすぐ横の公安の派出所に、ペンパ・タシと私は連れていかれました。部屋には十五人ほどの警官が私たちを待ち構えていました。警官の一人が印紙の付いた紙を持って来ると、私の両腕を掴み、親指で拇印を取りました。終わると手錠をさらに強く締められ、小さな日本製の車の後部座席に乗せられ、グツァ刑務所に連れて行かれることになりました。さらに手錠がきつく締められたため、血がしたたり始め、痛みは耐え難いものでした。
  

 ラサの東にあるグツァ刑務所に着くと、私とペンパ・タシの手錠は一緒に繋がれ、ふたりして手錠を頭の上に揚げたまま半時間ほど待たされました。一枚の紙を手にした警官がやってくると、私たちは刑務所の外へ連れて行かれました。農園の側まで来ると、私たちはいきなり腰を足蹴にされ、水路の中に突き落とされたのです。「お前は何様のつもりだ」とあざ笑う彼らに、私は「僧侶です」と答えました。「いいざまだ。お前のしたことをよく考えて反省するといい」と言うと、彼らは私たちをそのまま流れる水の中に何時間も立たしたのです。春とはいえ、まだ冷たい水のなかで、私は次第に体の感覚を無くしていきました。
 

 夕方頃、水路から引き上げられると、私たちは別々の監房に入れられました。監房には四人のチベット人が入れられていましたが、彼らは全員普通の刑事犯でした。部屋は二畳ほどしかなく、トイレ代わりのブリキの缶が置かれていただけでした。手錠は夜中も外されること無く、これからの一ヵ月間ずっとはめられたままだったのです。

◆グツァ刑務所での拷問
 

 翌朝八時頃、尋問だといって私は監房から連れ出されました。二人の警官が待つ取調室に入ると、壁には様々な拷問道具が架けられていました。重苦しい雰囲気の中、彼らは私の拇印を再び採ると、尋問を始めました。
 「僧院内に独立組織があったはずだが、お前もその一人だろう。外国との繋がりがあったのか」彼らは威圧的な口調でそう聞いてきました。『外国との繋がり』がインドにあるチベット亡命政府のことを意味することは明らかでした。私は「そんな組織の事は知りません」と答えました。彼らは、デモの扇動者は誰か、誰がデモに私を送ったのかと今度は聞いてきました。「私にはどんな組織も外部との連絡も必要ありません。ただ現にチベットで起っていることを知っているだけで、十分デモに行く理由が私自身にあったからです」そう答えるや否や彼らは私の顔を殴りつけました。前のテーブルには電気棒や銃が置かれていました。「外部とは何の繋がりもありません。好きにすればいい。私には死の覚悟が出来ています」彼らは、これを聞くとにやりと笑いながら、口に電気棒を押し込みました。一瞬、頭が裂け、全身が燃え上がるような気がしました。口の中が切れて、血が流れ出ました。電気棒は、普段家畜を追いやるために使う物ですが、チベットでは拷問によくつかわれます。強い電流が流れ、それは説明出来ない程の激しい痛みなのです。
 

 彼らは続けて私の頬や胸に電気棒を押し付けました。それに飽きるとふたりから袋打きにされ、私は死んだように床に横たわっていました。すると中国人警官が顔に煙草の火を押し当て、私を起き上がらせ「デモに参加した僧侶の名を言え」と怒鳴りました。そして、私がそれに答えないのを見ると、腰を強く蹴り上げたのです。何度も何度も同じことが繰り返されました。その内、私は吐き始め、口と鼻からは血がしたたり落ちました。気を失うとバケツの水が掛けられ、頭を壁に嫌というほど打ち付けられました。夕方になってようやく尋問は終わり、私は引きずられて監房に戻りました。その日、小さなパンが二個与えられただけで飲み物は一切与えられませんでした。
 

 次の日の朝、同房のチベット人が私に二つのパンとカップ一杯のお茶を分けてくれました。彼らは私のことを心配している様子で、色々と気づかってくれるようでした。朝九時からまた尋問が始まりました。前日とは違う部屋に連れて行かれ、警官も違う人たちでした。尋問の内容はほとんど同じでした。答える意志の無いのを知ると、彼らは私の靴を脱がせ、足を水の中に浸けさせました。そうして足の裏に電気棒を押し当てるのです。私がそのショックで悲鳴を上げるのを彼らは面白そうに眺めるのでした。私は彼らにとってもう人間の価値を持っていませんでした。昼頃、もう立てなくなった私は、引きずられて監房に帰されました。
 

 午後から再び尋問が始まりました。午前中と同じ部屋に連れていかれましたが、警官は入れ替わっていました。「中国人の警官殺しについて何か知っているか」「誰が車に火をつけたのだ」「誰がリーダーなのか」尋問は執拗に繰り返され、その度に殴られ続けました。手錠がはめられた私の両手は、赤黒く膨れ上り、焼けるような痛みがしていました。手の痛みを訴え、手錠を少し緩めてくれるように頼んでみましたが、よけい殴られるばかりでした。
 

 三時間程経つと殴り疲れたのか、彼らは私を縛り農園の水路の側に連れだしました。そこには壁から二本の木の棒が突き出ていて、鉄の鎖がぶらさげてありました。人を吊すための道具であろうと思いましたが、最初は使われませんでした。代わりに、彼らは私の縄を解くと、壁に向かって手を揚げ続ける様に命じました。空腹と全身の痛みのため目眩がひどかったのですが、少しでも手が下がると容赦無く殴られたのです。
 

 夕方六持頃になると、ついに私はその道具を使って吊し上げられることになりました。背筋が凍りつく思いがしました。私は不気味なその道具の下に連れていかれ、机の上に立たせられると鎖が手錠の間に通されました。そして、机が取り去れると私は空中に吊り下げられた状態になりました。手首と肩の痛みは狂わんばかりで、時間が経つにつれ手首から血がしたたってきました。こんなことに負けるなとただひたすら自分に言い聞かせていました。夜中に一度彼らは戻って来て、何か言いたいことがあるかと聞いて来ました。私は何も答えませんでした。彼らは私を殴りつけるとそのまま帰っていきました。
 

 私は、次の日の朝まで吊り下げられたままでした。一度意識を失ったようでした。朝、彼らは死んだようになった私を下に降ろし、取調室にそのまま連れて行きました。また別の警官がいました。質問の内容は同じでしたが、今度の二人は少し巧妙でした。デモには関係ない一般的なことについて意見を聞き、他愛無い話をしてきました。そして「もし、この尋問に協力し仲間の名前さえ教えてくれればすぐに釈放してやろう。そうすれば両親も悲しい目に合わなくて済むだろう」と持ちかけたのです。だが、私がこれに対しても何も答えないのを見ると、顔を殴りつけ、頭と耳の後ろの神経を狙って長い間電気棒を押し当てました。全身が強く痙攣し、脂汗が吹き出て、私はだんだん気が薄れていきました。
 

 その日の午後、再び私は農園に連れて行かれました。また、前のように 手を顔の前に上げたまま立っているように命令されました。その期間を三日間と言われた時、私は呆然となりました。四月とはいえ、チベットはまだ寒い冬でした。 私に与えられていた服といえば、下着と薄い上着、靴下だけしかありませんでした。長い凍えるほど寒い夜でした。私は何の食べ物も与えられず、ただ立っていなければならなかったのです。
 

 次の日も時々、取調室で尋問が行われる以外、私は立っていなければなりませんでした。喉が乾き、手が痺れてましたが、休むことは許されませんでした。
 昼にようやくパンが与えられました。実に二日ぶりの食べ物でした。けれども、喉が乾いていたためか、うまく飲み込むことが出来ませんでした。私は、喉の乾きに耐えられず、脇に下水路を見つけると、そこを流れていた洗濯の水を監視の目を盗んで素早く口に含みました。濁っていましたが、激しい喉の乾きを癒すのに夢中で気にしませんでした。
 

 夜中も立ち続けなければならなかったため、疲労は激しく、私はふらふらの状態でなんとか立っていました。昼頃、同房の囚人が労働の合間にパンを届けてくれました。危険を承知で来てくれた優しさが身に染みて、感謝の思いで一杯でした。農園を行きかう囚人たちは、皆私のほうをつらそうに見ていました。一時間が十時間にも思えました。ただ、ひたすら心の中でお経を唱えていました。ガンデン僧院で朝の勤行の際に皆で唱えていたお経を唱え、それが終わるとまた始めから唱えました。幾度も繰り返し唱え続けました。やがて、頭がだんだん朦朧として、お経を唱えるのも困難な状態になって来ました。そうなると、頭に浮かぶのは観音の真言「オン・マニ・ペメ・フン」だけでした。
 

 三日間外で立ち続けさせられた後、ようやく監房に戻ることが出来ました。同房の囚人たちが、残しておいてくれたパンを口にしました。小さなパンなのに、分配された半分を私のために残して置いてくれたのです。水も一杯どこからか持って来てくれました。彼らの優しさに私は涙せずにはいられませんでした。彼らはトイレの際も、手錠を掛けられているため、手が自由に動かせない私を助けてくれたのです。
 

 しばらくすると、再び取調室に連れて行かれました。部屋には四人の警官が深々とした椅子に腰掛けて待ちかまえていました。「お前は警官の死んだことについて何か心当たりがあるはずだ。車に火を付けたのはお前だろう。ガンデン僧院の独立運動組織の一人だったに違いない。誰が外国と連絡を取ったのだ」一人の警官がこう聞きました。私は「組織については何も知りません。外国と連絡を取る必要なんてありません。デモに関係ある人の名前も知りません。私はただの一僧侶に過ぎないのです。私を後ろ楯してくれるものは何もないのです。けれども、あなたたちが私を殺せば、真理という一つの力により、必ずや世界中の人が知ることになるでしょう」と答えました。
 

 彼らは、あざけるように笑うと、私の前に高めの椅子を持ってきました。私を膝まずかせ、顎を椅子に載せると背中を強く蹴り飛ばしました。そして手が床に付いていないのを見ると、革靴で手錠ごと踏み付けたのです。顎が反り、息が出来ず、首が折れるような痛みが全身を走りました。彼らはさらに首筋と耳の後ろに電気棒を押し当てました。そして背中の服を裂くと、鉄製の靴で何度も蹴りつけたのです。あまりの痛さに冷や汗が額からボタボタと伝わり落ち、私は失禁してしまったのです。
 

 この拷問は、一日中絶えること無く続きました。相手側は何度か入れ替わりましたが、拷問のやり方は変わりませんでした。まるで悪夢をみているようでした。数回私は「頼むから殺してくれ」と叫びました。二度意識を失い、その度に水が掛けられました。最後には大量の血を吐き、夕方監房に引きずられて戻されました。
 

 翌朝、小さなパン一つとお茶が一杯与えられました。食べ終わるとすぐに取調室に連れて行かれました。また見たこともない警官が二人いました。トイレに行かせて欲しいと頼むと許可され、チベット人看守が職員用のトイレに案内してくれました。ふと下を見ると、パンが一つ落ちていました。私はそれを汚いとも思わず、すぐに拾って口に押し込みました。
 また同じ様な尋問と拷問が続きました。私は何も答えませんでした。彼らは太い鉄パイプで全身を滅多打ちにし、床に転がった私を蹴り続けました。
 

 昼頃、監房に帰されたが、他の囚人は労働に出ていて居ませんでした。食事は何もあたえられませんでした。あまりに空腹を感じていた私は、上着を裂いて布を食べました。

 何日も何日も激しい拷問が続きました。私は、ただダライ・ラマ法王に祈ることで耐えつづけていました。いつ終わるとも知れない拷問の日々。時折投げ込まれるわずかな食事。肉体的にも精神的にもほとんど限界に近い状態でした。
 

 一月ほど経った5月18日の夜、私は取り調べ室に呼び出されると、十人もの警官に袋だたきにされたのです。殴られ、蹴られ、銃床で滅多打ちにされました。殺されてしまうと思いました。十人がいっせいに襲いかかるリンチの凄まじさは、説明しようがありません。私は自分が発狂するのではないかと感じる程追い詰められました。そして、とうとう偽りの『自白』をさせられたのです。「私は鉄パイプで警官を殴り、殺しました」と。彼らは早速この自白を書き記しました。私は仲間たちのことを思いました。彼らはどうしているのだろう。彼らは大丈夫なのだろうか。彼らもこのように悲しい告白を強制させられたのだろうか。彼らもしたのだろうか。いや、私がただ弱いだけなのだろうか。幾度も幾度もそう自問しました。
 

 『自白』の三日後、手錠が外されました。左手首の骨が見えていました。腕を動かす度に痛み、しばらくは、右手を動かせば同時に左手も動くといったありさまでした。十人の警官に殴られた後、私はひどい耳鳴りと頭痛に悩まされていました。しばしば、癲癇の症状に似た痙攣に襲われ、床に倒れ込むのでした。それは、インドに亡命し、前仏大統領ミッテラン婦人の善意によりフランスで治療を受けるまで、私を苦しめたのです。今でも私の手は何かを持ったり、書いたりすると震えるのです。同時に頭も震えてしまうのです。
 

◆死刑の告知
 

 『自白』した後は尋問もなくなり、その後半年はただ監獄の中で過ごしました。十月に北京当局から「死刑」との告知が来ました。それを見たとき、私は真っ青になり震えてしまいました。底知れない恐怖が、いよいよ現実のものとなって刻一刻と迫ってきているような気がしました。
 

 最後ということで両親や妹たちとの面会が始めて許されました。久しぶりに逢ったはずなのに、私たちは泣いてばかりいて話すことが出来ませんでした。母はたくさんのご馳走を準備して差し入れてくれましたが、全く喉を通らないのです。父はただ「息子は死んだ」とつぶやいていました。
 

 私たちの死刑の通知は、ラサ市民の怒りをかっていました。彼らは、私たちの公開裁判を行わなければ、再びデモを行うと当局に押しかけたのです。そのおかげで私たちは、裁判を受けられることになったのでした。けれども、その裁判が法の公平を遵守するとは期待できませんでした。
 

 その後、今までいた第四棟から第一棟に移されました。監房には、私を含め十二人の囚人が入れられました。全員、今回のデモでつかまった政治犯でした。
一、ツェリン・ドゥンドプ  (23)[ネチュン寺の僧侶]
二、タンディン       (22)[ガンデン僧院の僧侶] 
三、ロプサン・テンジン   (22)[西蔵大学の学生] 
四、ソナム・ワンドゥ    (33)[ラサ市民] 
五、ゲルツェン・チュペル  (20)[ラサ市民] 
六、ツェリン・ドルジェ     [共産党の食料局の役員]
七、ロプサン・タルゲェ     [セラ僧院の僧侶] 
八、ツェリン・ニマ       [商人] 
九、ソナム・ギャルポ  (40)[デプン僧院の僧侶]
十、チャンバ
十一人目はどうしても名前を思い出せません。このうち、上記の一から五の者たち、それに私を入れた六人がデモのリーダーであり、警官の殺害に直接関わった者たちであるとされていました。

◆裁判
 

 一九八九年一月十四日に私たちの裁判の公判が行われることになりました。三日前になると各々が罪名を書かれた紙を手渡されました。次のような文が書いてありました。

一、私は分裂主義運動のリーダーの一人であった。
二、私は三月五日に起きたデモの扇動者の一人であった。
三、私は警官を殺害した。
 

 そして、私たち六人は一緒に広場に呼び出され、警官から罪名を読み上げられました。彼らは裁判について説明を始めました。
「三日後に裁判が行われるが、誰か代理人を必要とする者はいるか。代理人は、両親でも知り合いでも誰でもよしとする。ただその者が中国の法律を知っていさえすればよい」と彼らは言いましたが、私たちは皆「代理人は必要ありません。自らが出頭します」と答えました。誰も他人を自分と同じ目に合わせたくはなかったのです。彼らは、代理人となった父を同じ様に脅迫し、自分たちの都合の悪いことは何も語らせようとはしないだろう。無罪を証明したいのならば、証人を呼ぶことも出来るとも言われましたが、何も期待できないのは同じ事でした。そして「自分は無実だと主張することは許されるが、拷問については一切話してはならない」と最後に言い渡されました。弁護人の可能性については全く触れられませんでした。
 

 その日から六人は別々の監房に振り分けられました。裁判の前日、名前と住所の入った出頭書を渡されました。
 弁護士もつけられない裁判に期待は持てませんでした。私たちには人権がない。自由がない。悲観的な思いで公判の日を向かえました。
 

 公判の朝、私たちは二人の警官に両肩を取られてグツァ刑務所の入り口近くに並ばされました。刑務所の外には兵士が道の両脇にずらっと整列し、マシンガンを満載したトラックが三台並んでいました。
 私たちは、兵士に囲まれるようにしてバスに乗り込みました。バスの窓は黒く塗りつぶされていて外は全く見えませんでした。きっと外からも中は見えなかったでしょう。まるでチベットのように。
 

 三台のトラックに先導されて私たちが着いたのは、軍用基地の中にある人民解放軍会館でした。沢山の市民が詰めかけていました。私たちはすぐに裁判が行われる建物の中に連れて行かれました。引っぱられるようにして廊下を通り過ぎると、窓の向こうから沢山のチベット人たちが叫んでいました。彼らは必死で私たちに食べるものを渡そうとしていましたが、厳戒な警備の前で何も出来ないようでした。彼らが、私たちに十分な食事と飲み物が与えられない限り基地の前でデモを続けると叫んでいるのが耳に入りました。彼らの気持ちは大変嬉しかったのですが、私はやるせない気持ちで一杯でした。
 

 市民が中に入ることは許されませんでした。会場には、選ばれたチベット人が五百人程傍聴席に座っていました。中国側は会場内のチベット人が騒ぎ始めないように気を配り、四百人程の兵士が銃を構えて、傍聴人を囲むように整列していました。
 

 一段高くなった壇上には、軍服を着た十一人の判事らしき者が座っていました。私たちは彼らの前に並ばせられました。私は一番最後でした。中央に座っていた者が裁判官らしく、彼は「これからお前たちの罪状を読み上げるが、不服の場合はそれを表明することが許される。チベットの独立など決して起こりはしない。お前たちは苦しむだけで終わるのだ。自分自身を痛めつけるために重い石を持ち上げようとしているだけだ」と会場の聴衆に向かって言いました。そして、検察側からの冒頭陳述が始まりました。
「一九八八年三月五日、十時三十分頃、一部の分裂主義者が独立を叫び、暴動を起こした。分裂主義運動のリーダーであるツェリン・ドゥンドプ、タンドリン、ロプサン・テンジン、ソナム・ワンドゥ、ゲルツェン・チュペルらは、その後ポムダ・ツァンビルに押し入り、三階にて職務についていた二人の中国人警官を殴りつけ、重傷を追わせ、一人の警官を窓から突き落とした。下にいたバグドは、落ちてきた警官を鉄パイプで殴りつけ、死に至らせたのである。被告は全員この起訴事実を認めている」検察側はえんえんと嘘を並び立てました。私の供述が読み上げられたとき、私は「全部嘘だ!拷問されたんだ!」と叫びました。すぐに両脇にいた警官に抑え込まれ、それ以上何もいうことができませんでした。
 

 裁判は進み、私たちの罪状認否の番がまわってきました。ソナム・ワンドゥが席に立つと、彼も拷問のことを話し始めました。だが、すぐに警官に引きずり降ろされてしまったのです。彼はそれでも拷問のことを叫び続けていましたが、何人もの警官に抑え込まれてしまいました。
 

 順番が私に回って来たときも同じでした。両脇を強く掴まれ、マイクから引き離されて引きずり降ろされました。だが、傍聴席から非難の声が上がったのです。「彼に話しをさせろ。彼にも話す権利ははあるはずだ」ブーイングの声が会場内に響き渡りました。私はもう一度話すことが許されました。「私が殺したというならば証拠は何処にある。証人はどこにいる!」彼らの言う『証人』は怪我をしたもう一人の中国人警官以外はいませんでした。
 

 私の後にロプサン・テンジンが話し始めました。彼は「中国の法律は欺瞞以外の何物でもありません。私の供述は全部拷問によるものです」と言い、法律の何条かを引用し明白な証拠がないことを示しました。彼が話し終わると、傍聴席からは一斉に拍手が湧きました。裁判長が沈めようとすると野次が盛んに飛びました。裁判長が、被告の主張は却下すると告げると、同時に兵士が彼を掴んで引きずり降ろしました。その間にソナム・ワンドゥが再び拷問について話し始めました、彼もすぐに同じ目にあってしまいました。私も話そうとしましたが、すぐに取り押さえられました。
 これ以上何も発言することが出来ず、私たちは再び手錠を掛けられ、そのまま外に連れ出されたのでした。
 

 会場から外に出ると、広場に連れ出されました。私たちはそれぞれ二十人程の兵士に囲まれ、殴りつけられました。「余計な事をいったからだ」これが、彼らが私たちを殴る理由でした。私は、散々鉄パイプやライフルで滅多打ちにされてから、車に乗せられました。ロプサン・テンジンと私は、同じ車に乗せられましたが、二人とも顔もシャツも血だらけで本当にひどい状態でした。私たちの両脇には自動小銃を抱えた兵士が乗り込み、少しでも顔を上げると殴られました。頭を深く下げ、両耳の脇にライフルの先が強く押し当てられた状態で刑務所まで戻りました。
 その日は、別々に独房に入れられました。

◆判決
 

 次の日再び裁判所に連れて行かれました。30才くらいの妊婦と五人の尼僧も一緒でした。中に年老いた尼僧が一人いました。裁判所に着くとガンデン僧院の僧侶十二人とセラ僧院の僧侶一人、そしてユーロ・ダワ・ツェリンがシトゥ刑務所より少し遅れて到着しました。またどこの刑務所から来たのか分からない 五人が加わりました。
 

 今日は発言することは全く認められておらず、マイクも置かれてありませんでした。傍聴席で話したり反論することも許されていませんでした。重苦しく張り詰めた空気が漂い、会場は不気味なほど静まりかえっていました。そして、次々に私たちの罪状と求刑が読み上げられていきました。
 

 ロプサン・テンジンには、死刑の判決が下り、ソナム・ワンドゥには無期懲役が言い渡されました。私は仲間の内では一番短い三年の禁固刑、1988年4月18日から1991年同日までとされました。

1)  ロプサン・テンジン (24)[西蔵大学の学生]二年の内に死刑
2)  ソナム・ワンドゥ (36)[ラサ市民]無期懲役
3)  ゲルツェン・チュペル (28)[ラサ市民]懲役15年
4)  ツェリン・ドゥンドプ (29)[ネチュン寺の僧侶]懲役10年
5)  タンドリン (25)[ガンデン僧院の僧侶]懲役 5年
6)  ツェリン (26)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役 4年
7) テンパ・ワンダック (49)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役14年
8) プンツォク・ゲンツェン (37)[ガンデン僧院の僧侶]懲役12年
9) ギャダル (35)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役10年
10) ツンドゥ・タルチン (41)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役 8年
11) クンサン・ツェリン (35)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役 7年
12) チュンダク (28)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役 5年
13) ツェリン・ソナム (26)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役 4年
14) タシ(20)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役 3年
15) パッサン(22)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役なし
16) ソナム(19)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役なし
17) パルデン (25)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役なし
18) ユーロ・ダワ・ツェリン (60)[ガンデン僧院の僧侶] 懲役10年
19) トプテン・ツェリン (62)[セラ僧院の僧侶]     懲役 6年

 全員の求刑が言い渡された後、裁判長は「判決に不服がある場合には、十日以内ならば申し立てることが出来る」と言いました。しかし、その日は誰も答えようするものはいませんでした。ホールはシーンと静まりかえったまま、「これで裁判は終了する」という宣告で全ては打ち切られてしまいました。
 

 判決が言い渡され、会場から外に連れ出されると昨日と同様のことが待っていました。沢山の兵士たちに囲まれ、まるでボクシングのサンドバックのように殴られました。皆、殴られ、蹴られ、ライフルの銃床で嫌というほど打ち据えられて、地面に投げ出されました。皆死んだように横たわっていました。特にソナム・ワンドゥとソナム・ギャルポがひどく二人とも血まみれで、目も当てられない有様でした。ソナム・ワンドゥは腰や足をひどく殴られたらしく、下半身は血だらけでした。彼は以来、松葉杖がなければ歩けなくなってしまったのです。ソナム・ギャルポ(40)(デプン僧院の僧侶である彼は、私たちとは別で一九八七年九月二七日のデモの時より、このときまで裁判を延ばされていた)は、拳銃の先で目のすぐ側を刺されており、目が飛び出したように見え、顔中血で真っ赤でした。老齢のセラ僧院のトプテン・ツェリン(62)も例外ではありませんでした。彼は左肩を強く銃床で打ち据えられて、痛みに呻いていました。ガンデン僧院の僧侶ツェリン・ソナムは、肋骨を折り、私は睾丸と陰茎をひどく蹴られ、銃床で打たれたため、以来激しい痛みに悩まされました。排尿が困難になり、朝起きるとシーツが血で真っ赤に染まっているという日々が何年も続いたのです。
 

 グツァ刑務所に帰され、また皆別の監房に入れられました。十日以内に不服状を書くことができると言われましたが、私は書きませんでした。書いても意味がないだろうと思ったからです。六人の内四人がこれを書きましたが、後日その証拠を提出するようにと言われました。20日後、書いていない私までが中国政府からの通知を受け取りました。そこには「如何なる判決であろうとそれに従うこと」と書いてあるだけでした。

◆ダプチ刑務所
 

 1989年4月14日、この時裁判を受けた全員がラサの北数キロメートル、セラ僧院の近くにあるダプチ刑務所に移されました。そこは極刑の人だけが服する厳しいことで有名な刑務所でした。グツァ刑務所では普通のボロ服を着せられていましたが、ここに着くと青色の囚人服に着替えるように命令されました。そして下着、大きな靴、帽子がそれぞれ渡されました。
「判決の際言い渡されたように、ここでお前たちは心を変えるように」とまず言われました。私たちが到着する前に、囚人全員を集めた集会があり、そこで他の囚人たちは「政治犯とは決して話したり、一緒に食事を取ったりしてはいけない。さもなくば、彼らと同じ『病気』が移るであろう」と命令されていました。しかし、刑務所で服役し始めると、他の囚人は私たちの近くに来たがり、笑い掛けたり、食事を一緒に取りたがりました。そして、尊敬を込めて「僧侶様」と話しかけてくるのでした。
 

 刑務所は四つのブロックに分かれていました。一つのブロックは十三づつの小部屋で構成され、第三ブロックは女性の囚人のみが収容されていました。私は第二ブロックに入れられました。第二ブロックには、全部で百人程の囚人がおり、その内六人のみが中国人で他は全てチベット人でした。
 

 ダプチ刑務所では、囚人全てに労働が科せられていました。仕事はブロック別に振り分けられていて、私のいた第二ブロックは建設作業が中心で、石割り、煉瓦運び等をさせられました。第一ブロックはビニールハウスでの野菜作り、第四ブロックはリンゴ園での仕事が主でした。
 

 いざ仕事が始まると、他のチベット人の囚人たちは、私たち政治犯を全くと言って良い程働かせようとしませんでした。彼らは私たちの分まで働くからと言って、楽な仕事をまわしたり、休ませようとするのです。他のブロックでもそうだったに違いありません。彼らは私たちに尊敬を払ってくれて、チベットの誇りであるとさえ言ってくれました。看守たちは何度も「政治犯こそ本当の犯罪人なのだ。一番働かせるべきなのだ」と注意しましたが、彼らは決して耳を貸しませんでした。
 

 ラサ市民たちは、しばしば私たち政治犯のために食べ物を差し入れしてくれました。部屋で食べることは出来ませんでしたが、監視の下で食べる部屋が特別に用意されてました。私たちはいつも他の囚人たちに分けあって食べるようにしていました。刑務所側は政治犯に差し入れられる食べ物は不適当なものであり、一緒に食べないようにと命令していましたが、囚人たちは常に私たちと一緒にいたがりました。私の体を気づかい、服を洗濯までしてくれるのでした。
 

 部屋には、人がようやく通れるような通路を挟んで、両側に二段ベッドが三台づつあり、十二人の囚人がいました。労働以外は、外から錠が掛けられ、トイレはブリキの缶があるだけでした。朝の点呼が終わると捨てに行くことになってましたが、不衛生な食事のため腹を壊す者も多く、特に夏場の悪臭はひどいものでした。 
 

 中国当局は、政治犯の待遇は他の囚人たちより良いものだと発表していましたが、実際はもちろん逆でした。集会があるときには、刑事犯の者たちには椅子が用意してあるのに対して、私たちには冷たい床があるだけでした。
 

 月に一度、刑務所の囚人約六百人全員が集められ、新聞勉強会が開かれました。「西蔵日報」という新聞を渡されて、その内容について質問されたり、意見を述べたりするものでした。例えば「チベットは独立する権利があると思うか」といった内容でした。中国側は、決まってこう言うのでした。「チベットの独立など起るべきではない。それはチベット人のためにならないからだ。そんなことになれば、古きチベットが蘇り、そこでは少数の搾取者がのさばり、ほかの多くの人民は悲惨な状態に置かれてしまうのだ。だからこそ分裂主義者は断固として抹殺されるべきなのだ」私には今より悲惨な社会があろうとはどうしても思えませんでした。
 

 1989年も半ばになると急に政治犯の数が増えてきました。独立要求のデモが頻繁に起きるようになったからです。刑務所側は、私たちが他の囚人たちに『分離主義』という悪い病気を撒き散らしており、『感染』から他の囚人を守るために、政治犯専用の楝を設けるべきだと言い始めました。第五ブロックという新しい棟が私たちのために作られ、1990年の始めに全ての政治犯が移されることになりました。移った当時の政治犯は、全部で85名いました。もはや完全に他の囚人たちとは会話も食事のやり取りも出来なくなってしまい、親切にしてくれた仲間とは労働の行き帰りに擦れ違う程度になってしまいました。  
 

 第五ブロックが新設されてすぐに、政治教育集会が20日間開かれました。『チベットの歴史』についてでした。中国に都合の良いように解釈され、侵略を正当化する偽りだらけの歴史が何時間も説明されました。様々な質問が与えられ、彼らが満足する答えが要求されました。少しでも意義を申し立てようものならば、すぐその場で縛り上げられ、殴打されたあげく何時間も倒れるまで走らされるのでした。けれども、私たちは全員抗議し続けたのです。始めに抗議を示した勇気ある者は本当に酷い仕打ちを受けました。その後は全員が一斉に抗議に出たこともあり、刑務所側も人手が足りなくなったのか、次第に殴打の回数は減っていきました。
 

 私は今度はリンゴ園で働かされることになりました。各々がその日のノルマを課せられ、果たせなければ罰を受けることになっていました。 ラトゥ僧院の僧侶ダワは、体が衰弱していたので仕事が果たせなかったため、殴打されて一晩中立たされたことがありました。
 

 また、ビニールハウスでの野菜の栽培の仕事もありました。日中四十度以上にもなるハウスの中で、人糞を肥料として撒いたり、農薬を散布したりの仕事は吐き気と目眩がして、大変きついものでした。倒れても医者が呼ばれるどころか、監視人に殴り起されるのが常でした。二人一組のこの辛い仕事で、一年間に公務員の四倍の年収にあたる15000元(=約18万円)の収穫高を上げねばならず、達成しない者は刑期が延長されるのでした。
 

 一日十一時半からの昼食を挟んで、九時間の労働が日課でした。冬は、果樹園など、仕事がないときもありましたが、その代わり政治犯はリンゴ園の回りを走らせられました。この長いランニングは本当に苦しく、胸も心臓も裂けるかと思われ程でした。血を吐く者、気を失い倒れる者も少なくありませんでした。
 時には、態度が悪いという理由で、夜中に走らせられたり、背中に大きな石を背負って走らせられることもあったのです。

◆仲間の死刑 

 投獄二年目の長い極寒の冬も皆でなんとか助け合って生き抜き、春の気配が感じられるようになった頃、心底打ちのめされた悲しい事件が起こりました。
 1990年5月17日、ダプチ刑務所の囚人全員が広場に集められ、二人の囚人の処刑が発表されたのです。拳銃を持った大勢の兵士が立ち並ぶ前に、手を後手に縛られ、足枷をはめられた四人の囚人が並ばされていました。死刑の日が近づいていた西蔵大学の学生であるロプサン・テンジン(22)、ガンデン僧院の僧侶タシ(20)、刑事犯で終身刑だったミクマル・タシ(19)、同じく死刑の判決の受けていたダワ(27)の四人でした。彼らは第五ブロックが建設されて、政治犯と刑事犯が分けられる前、第一ブロックで同室の仲間だったのです。彼らは共同で刑務所の惨状とチベット独立を訴える文書を書き、密かに刑務所外に持ち出したことが発覚したということでした。彼らは一ヵ月程、別の刑務所へ尋問のために連れ出されており、生々しい拷問の跡が伺われました。
 

 囚人皆が息を潜んで見つめる中、四人の罪状と処分が言い渡されました。ガンデン僧院の僧侶タシは懲役三年が十二年半に延ばされた上、一年間足枷がはめられることになり、ミクマル・タシとダワには即刻死刑の判決が下されました。ロプサン・テンジンには、すでに死刑の判決が下されていましたが、中国政府は彼に対しては何もすることが出来ないようでした。彼に対しては国際世論やアムネスティの注目が集まっていたからです。だが、死刑の判決を受けた二人は即刻処刑されると発表されました。広場は一瞬静まりかえり、私は信じられない気持ちで二人を見つめました。彼らは刑事犯だったけれども、明るい性格で私たちを助けてくれ、皆に好かれていました。彼らは即その場から死刑場に連れされることになりました。ショックで私たちは呆然としていました。そんな私たちに彼らは静かに微笑み掛けて行ったのです。多くの警官に取り囲まれジープに乗せられて行った二人のあの笑顔を、今も忘れることが出来ません。啜り泣く声があちこちから聞こえてきました。
 

 夕刻、冷たくなった二人は迎えにきた両親に引き渡されました。しかし、両親は無残な姿となった息子と引き替えに、死刑の際に使用した銃弾の代金を要求されたのです。このことがあって後、私も他の囚人もひどくふさぎ込んでしまいました。
 

 その頃より政治犯全員が早朝六時から七時三十分まで、健康管理と称されてランニングが課せられました。これは健康な者(もしそんな政治犯がいたらの話しだが)でも死ぬほど苦しいことでした。高度3800メートルのラサの空気の薄さの実感は、走ったことがあるものでないと決して分からないでしょう。ランニングは、老人も病人もお構いなしに強制されのです。少しでも走るペースを落とせば、すぐに電気棒で殴られ、追い立てられるのでした。
 

 仲間のソナム・ワンドゥは裁判後に受けた暴行のため背骨は曲がり、足は麻痺して松葉杖無しでは歩けない状態でした。だが、看守たちは彼にすら走ることを強制したのです。松葉杖で懸命に走ろうとしますが、私たちに追い付くのは無理な話しでした。ある日、電気棒をいくら使っても着いていけないのを見た看守は、怒って彼の松葉杖を取り上げ、近くで監視人たちが暖を取るための火の中に投げ込んでしまったのです。そして、彼はわざと足の悪い振りをしていると言われ、その場で数人の看守に囲まれ、袋叩きにされました。その日の昼には、彼は女性用トイレの汲みだしと掃除を命令されました。足がまるで立たず、まるで虫のように這って仕事をする彼を、私と他の仲間の一人が助けようとしましたが、見つかり二人とも酷く殴られてしまいました。
 

 ある朝、仕事に就こうと楝を出たとき、リンゴ園の方から悲鳴が聞こえて来ました。近づいてみると、そこではソナム・ワンドゥがまたも連れ出されリンチにあっていたのです。鉄パイプや電気棒が彼の体を散々打ちのめしていました。「もう殺してくれ!アマー!アマー!(お母さん)」と叫ぶ彼の苦痛に満ちた悲鳴が響き渡っていました。私たちはそれを遠目に眺めているしかなす術がありませんでした。悔し涙が後から後から溢れてきて、止めることが出来ませんでした。
 

 その後も、彼は同様の扱いを何度も受けねばなりませんでした。終身刑であった彼は、看守たちの格好の標的でした。一年も経たずして、彼は完全な下半身不髄となり、車椅子生活を強いられるまでになってしまいました。
 刑期が九年半も延ばされた上、一年間足枷がはめられることになったタシは、重い足枷を引きずりながら作業をせねばなりませんでした。しばらくすると、拷問の時に受けた頭の傷が悪化し、下半身が完全にマヒしてしまいました。警察病院に入院させれたものの、回復する見込みがなく、93年に自宅に引き取られることになりました。迎えに来た両親は、それまでに掛かった高額の入院費を支払せられたと言います。
 

 1990年の暮れには、政治犯120人が第五ブロックに服していましたが、最も高齢であったのは6年の懲役を受けたデプン僧院の僧侶ロプサン・ツォンドゥ(75)、最年少は3年の懲役を受けたキュルモルン僧院の僧侶ノルブ(14)でした。

◆ラクパ・ツェリンの死 

 かなり冷え込んだ1990年12月14日の夜、政治犯のラクパ・ツェリン(20)が死亡しました。彼は「チベットの雪獅子」という政治活動グループのリーダーの一人で、1989年3月7日の大規模なデモに参加して逮捕されていました。グツァ刑務所からダプチ刑務所に1990年に移されて来たのですが、グツァ刑務所で受けた激しい拷問のため衰弱がひどく、特に背中や腹部の痛みを私などに訴えていました。けれども、治療を受けられることなく、厳しい労働と虐待のために悪くなる一方だったのです。
 

 12月の7日か8日だったかはっきり覚えていませんが、彼は夜中に激しい痛みに襲われ、呻き始めたのです。同室の仲間が大声を上げて看守を呼び、彼を病院に運ぶように頼みましたが、連れて行こうとはしませんでした。看守たちは「何、悪いもんでも食べて腹を壊しただけだろうさ。お前たち分裂主義者など、死ぬなら死ねばいい」と嘲るばかりで、まともに取り合ってもくれなかったのです。
 

 しばらくすると、医者らしい者が来て、彼に動物にでも打つように乱暴に一本の注射をしました。その後彼の様態は益々悪化していきました。そして12月10日に、ようやく彼は警察病院に運び込まれたのです。少し回復したと聞かされて私たちはほっとしていました。十四日には戻って来ると聞かされていました。しかし、再び刑務所に戻って来た彼は、多量に吐血して重体となり、その夜再び吐血して死んでしまいました。その夜、密かに呼び出されて吐血の跡を掃除させられた囚人たちから、私たちは彼の死を知りました。
 

 彼は思いやりのある優しい青年でした。体が痛んでつらかっただろうに、いつも笑みを絶やすことがありませんでした。彼の死は皆の心に重くのしかかり、悲しみとやり場の無い怒りで押し潰されそうでした。私たちはもう我慢の限界に来ていました。そして、ついにデモを行うことに決めたのです。最初は親しい仲間内だけで行うことにしていましたが、後にはそれを知った全ての政治犯と他の囚人たちもこれに加わってくれました。たとえどんな仕打ちを受けようとも、断じて決行すると誓い合い、シーツに『我々政治犯は待遇の改善と死んだラクパ・ツェリンの葬儀を行うことを要求する』と記しました。そして座り込みを始めたのです。
 

 前代未聞の気違い沙汰と見た看守たちは、すぐに刑務所の役人を連れて来ました。「そこでお前たちは一体何をやっているのだ!」彼らは怒りで顔を真っ赤にしていました。「我々は見ての通りデモをやっている。まず、第一にチベットの習慣に従い、ラマ(高僧)にラクパ・ツェリンの死体を検証させて欲しい。第二にあなたたちは我々チベット人を人間と思っているのか、動物と思っているのか答えて欲しい。第三にラクパ・ツェリンの葬儀に参加させて欲しい」と私たちは訴え、今日中に回答を貰いたいと迫りました。彼らは「刑務所内でデモを行うことは法律違反だ!」と怒鳴り続け、即刻解散するようにと命令しました。けれども、私たちは止めようとはしませんでした。「私たちは全員、法律に違反していないのにこの監獄に押し込まれた者だ。本当の法律違反はお前たちであろう」「あなたたちは我々がどんな扱いを受けているか一番ご存じのはずだ」「第四の要求として、人権を完全に無視し、彼を死に至らしめた全ての監視人、医療職員の解雇し、もっと人権を知る者と替えることを要求する」私たちは溜まっていた不満をぶつけました。「何でそんなに死体を見たがるのか?」彼らは死体を誰にも見せたくないようでした。「それはチベット人の習慣で、ラマが故人を死後良き来世へと導くためであり、我々は彼に別れを言いたいからだ」私たちはそう主張し続けました。
 

 しかし、彼らはしばらくすると無視することに決め込んだらしく、そのまま立ち去って行きました。私たちは彼らの後ろ姿に向かって「お前たちが彼を殺したんだ!」と叫びました。
 私たちはハンガーストライキに入ることにしました。するとその夜には「分かった。セラ僧院の近くで行われる(そこには有名な鳥葬場があった)葬儀に何名かを参加させよう。だから食事を取ってほしい」と言ってきました。けれども、彼らの言葉を信じることができませんでした。一時的な気休めで、結局曖昧なまま無視されそうだったので、私たちはもっと大人数でストライキに入りました。やがて、私とソナム・ワンドゥ、それに数人の年老いた政治犯が選ばれて彼の最後の場所となった刑務所内の医療室に連れて行かれ、彼が亡くなったというタンカを見せられることになりました。医務室の片隅に置かれたタンカは、血糊がべったりと付いていました。そして「彼の遺体は北京政府の例外的好意で家族の元に還された」と言われました。
 

 その後、彼の遺体はセラ僧院の裏山で鳥葬に伏されました。この葬儀に立ち合ったのは、一人の軍事判事と医学院のチベット人医師一人だけで、後は禿鷹に与えるために死体を切り刻むチベット人だけでした。死体解体人は、彼の死体は普通の死体と異なり、爪や唇、歯茎が真っ黒で、全身に殴打の後があり、内臓はぼろぼろだったとラサ市民に伝えました。
 ラサの町の壁に「ラクパ・ツェリンは監獄で毒殺された」と書かれた貼紙が現われました。当局は引き続くデモを警戒し始めました。

◆一通の手紙 

 1991年4月7日に、在北京米国大使ジェームス・R・リリー氏率いる米国外交代表団がダプチ刑務所を視察に来ると集会で知らされました。職員たちには第五ブロックの者たちの服装を整えさせること、必要ならば新着を与えること、娯楽の時間を設けてトランプやチベット人の好きなサイコロ遊びをやらせること、まともな学習教室を開くこと等を指示していました。だが、最終的に刑務所側は、第五ブロックに鍵を掛けて立ち入り禁止とし、代わりに第四ブロックの刑事犯を「改心した政治犯」として見せることに決定したのです。
 私は、その頃、体の具合が悪く医務室にいました。癲癇の症状がひどくて、立ち上がることも出来ない状態だったのです。
 

 第五ブロックでは、どうやって米国大使にこの悲惨な状況を伝えるかが相談されていました。人権問題等に敏感な西側諸国に知らせることで、虐待で苦しめられている囚人たちを救える可能性が見い出せるかも知れない、そんな気持ちで一杯だったのです。ラクパ・ツェリンの他にも既に二人が亡くなっていました。塀の中にいる私たちにとって、米国大使の訪問は唯一のチャンスだったのです。刑務所の惨状や人権が全く考慮されていないこと、ラクパ・ツェリンの死等について手紙をしたため、なんとかして彼らに渡そうということになりました。運良く、当日ロプサン・テンジンとガンデン僧院の僧侶テンパ・ワンダック(59)が医務室に抜け出ることに成功しました。
 

 4月7日、米国外交代表団が到着しました。彼らは大勢の看守らに囲まれて、刑務所の中を移動して行きました。それが、この日のために巧みに演出されたものだとは知らずに。
 米国外交代表団が第四ブロックを出たところで、ロプサン・テンジンとテンパ・ワンダックは大使目がけて走り込みました。そして、大使の手に手紙を押し込んだのです。だが、すぐに側にいた中国人女性の通訳に手紙を奪い返されてしまいました。これを見ていた大使は「これが人権に対する中国政府のやり方かね」と声を上げたそうです。
 

 しかし、そのまま視察団は帰って行きました。そしてテンパ・ワンダックとロプサン・テンジンは、散々拷問で痛めつけられた後、手錠を掛けられ窓一つない独房の中にそれぞれ入れられてしまったのです。私は二日後の四月九日に医務室から戻り、このことを聞かされました。彼らが入れられた一畳程の独房の中には、トイレ用に掘られた溝の他にはコンクリートの冷たい床以外何一つ無いのです。寝具もなく、ベッドすら置かれていない真っ暗闇の中にいる彼らのことを思うと、胸が張り裂けそうでした。どの刑務所にも小さな独房があり、入れられた政治犯も少なくありませんでした。
 

 仲間たちはこの二人を独房から出すために、新たなデモを計画していました。私ももちろん加わるつもりでした。「いつも、皆と運命をともにする覚悟がある。勝つも負けるも、生きるも死ぬも皆一緒だ」私は何度も彼らにそう訴えました。しかし、仲間たちはどうしても私がデモに加わることを許してはくれなかったのです。「お前は絶対デモに加わってはいけない。刑期がもうすぐ終わろうとしているではないか。もし、ここでデモに加われば、刑期がさらに延ばされることになるかもしれないんだ」「お前は必ず外に出て、そしてインドに亡命しろ。我々に代わってダライ・ラマ法王や外の世界にこの監獄の真の様を伝えてくれ」話しながら、私も仲間たちも涙が溢れて止まりませんでした。これがチベットの現実なのだ。これが私たちが置かれている現実なのだ。涙が止まらず、嗚咽し続ける彼らを前にして、私は必ずインドに亡命し、皆の意思を伝えることを固く誓ったのです。

◆釈放
 

 10日後の1991年4月18日、3年の刑期を終了し、私は釈放されました。私は信じられない気持ちでその日を迎えました。決して生きて再び外に出れることはないと諦めていたからです。仲間たちは皆涙ながらに見送ってくれました。皆と言葉を交しながら私は涙が止まりませんでした。嬉しさよりも彼らを残して出ていく無念の方が大きく、出獄することはたまらなくつらいことでした。いつも助け合い、励まし合った友たちだったからです。出来れば、皆揃って釈放されたらどんなかに嬉しいだろう。そんな叶わぬ夢ばかりを思っていました。
 

 月に一度だけ、家族や友人たちは囚人との面会が許されていました。私が釈放された二日後がちょうど面会の日でした。刑務所に残ってデモを起そうとしている仲間たちのことが心配だった私は、彼らの家族を訪ねて、大きなデモが起ろうとしていることを知らせました。沢山の家族、親戚の者たちがこの日刑務所へ向かいました。皆はデモ中だからと言って面会を拒否しました。それでも、ツォモリン寺のペンパ(24)とガンデン僧院の僧侶ギャダル(35)、ラサ市民のテンパ・プージュンの三人が家族に逢うようにと連れて来られました。だが、三人は面会室に入るとすぐに「二人を独房から出せ!」と叫んだのです。たちまち三人は看守に掴まれ、家族の見ている前で激しく殴られてしまいました。そして、彼らも手錠を掛けられたまま、窓一つ無い独房に入れられてしまったのです。一週間後の4月27日、この五人はラサから東へ600キロメートル離れたコンポ地方の僻地にあるタルモ刑務所に送られてしまいました。そこは、完全に外部とは遮断された刑務所で最も劣悪な待遇と過酷な強制労働で有名でした。面会は一年に一度あるだけで、手紙のやり取りも全く禁じられています。テンパ・ワンダックは、私たちガンデン僧院の経典の先生でした。デモのリーダーだったとされ、十四年の懲役を受けた後でも、常に前向きで慈悲に溢れ、優しさを忘れたことはありませんでした。皆が本当に尊敬に価する師として慕っていました。今、テンパ・ワンダックは視力を著しく害していると言われています。ダプチ刑務所での一ヵ月に及ぶ真っ暗闇の独房生活のためだと思われます。
 

 彼ら五人の処分に対し、政治犯全員が再び立ち上がりデモを行いました。残された政治犯は看守たちへ直訴に行くことを決心し、「彼らを送るのならば、自分たちも一緒に送ってくれ」と訴えたのです。どうなろうとも皆一緒に苦しみを分かち合おうと話し合った後のことでした。
 

 今度は、看守たちは容赦しませんでした。刑務所のすぐ隣にある軍のキャンプから、とうとうデモの鎮圧のために大量の兵士が乗り込んできたのです。皆縛り上げられすさまじい暴行が加えられました。何人もの兵士がよってたかって彼らを袋叩きにしました。ガンデン僧院の僧侶ツェリン(26)は腰骨にひびが入り失神してしまいました。血だらけで失禁して横たわる彼を兵士たちはそれでも蹴り続けたのです。そして、政治犯11人が拷問の後、手錠を掛けられたままそれぞれ窓一つない暗闇の独房に入れられてしまったのです。その中には、ダプチ刑務所で最も高齢だったデプン僧院の僧侶ロプサン・ツォンドゥ(75)もいました。ロプサン・ツォンドゥもひどく殴られており、全身血だらけでした。

◆亡命
 

 私は、釈放されてしばらくすると、亡命のための資金を作るためにラサ市内のレストランで働き始めました。体の調子は悪く、目眩、頭痛に常に悩まされていましたが、皆との約束を守るためにも、必ず亡命しなければと強く決心していました。従業員たちは私が僧侶であることを知ると、こんな仕事をしなくていいからと言って葬式がある度に私をその家に紹介してくれました。最低限のお金を手にすると、私はすぐにインドに向かう準備を始めました。カイラース山へ巡礼に行く振りをして、ガンデン僧院の僧侶四人と尼僧三人と一緒にラサを離れました。七月のことでした。
 

 途中で、他の仲間と落ち合い、全部で24人がヒマラヤを越えることになったのです。険しいヒマラヤの峠を越える途中、幾度も滑り落ちそうになり、その度に心臓が止まる思いがしました。足下には、気が遠くなるほどの崖がずっと続いているのでした。ネパール側に近づくに従って、雨期の影響でところどころ土砂崩れが起きていました。地盤が緩んでいるため、何度も足を取られそうになり、目の前に大きな石が突然崩れ落ちて来たりもしました。やっとの思いで濃霧の中を手探り状態で前進し続け、夜は雨を防げる岩場を宿としました。途中、私は癲癇の症状がひどくなり、仲間に助けてもらいながら、なんとかインドに辿り着きました。チベット亡命政府のあるダラムサラに着いたのは、ラサを出てから約三ヵ月後の10月17日のことでした。疲労の激しかった私はすぐに入院させられました。
 

 一週間後、なんとか歩けるぐらいに回復した私は、ダライ・ラマ法王の謁見を許されました。ダライ・ラマ法王は、私を近くに引き寄せると「もう、安心しなさい」と声を掛けてくれました。拷問の痛みで眠れない夜、監獄での張り詰めた緊張と暗澹たる不安の中、いつもダライ・ラマ法王に祈り続けることでなんとか耐えてきたのです。地獄とも思える苦しみの中で法王の存在だけが唯一の頼みでした。私は、堰を切ったようにチベットで起きていることを法王に申し上げました。泣いてはいけない、泣いて言葉が途切れてはいけないと思いつつも、何度も詰まってしまいました。ダライ・ラマ法王も口を結んで静かに遠くを見ていらっしゃいました。
 

 チベットは遠いところです。チベットの本当の姿も遠いところに隠されていてここからは見ることができません。そして、チベットの自由もチベット人の心の平安も幸せも遠いところにあるのです。



ソナム・ドルカ (32才)】【尼僧ガワン・ワンドン (22才)】【ジャンパ・プンツォ(71才)】【僧侶バグド (31才)
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