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■ダムチュの証言
私は、1989年3月3日、ラサで起った独立要求デモに参加し、逮捕されました。デモに参加した4日後の3月7日のことです。突然、公安が大勢家に押しかけ、乱暴に家中を捜索し、私と夫、そしてその場にいた2人の僧侶を逮捕したのです。その内の一人の僧は今同じくダラムサラにいます。イシェ・トクデンという『9-10-3(グチュスム)
の会』の会長さんです。
まだ幼かった娘を祖母に預け、私たちは警察所に連行されました。そこで皆立たされたまま「誰が後ろにいるんだ!誰に言われ、デモに参加したのか!」と何時間も尋問されました。その後、暗い部屋に投げ込まれました。狭く、暗く凍えるほど寒い部屋でした。寝床はなく、ただ床に少しだけ藁が敷いてあり、そばに便所用のブリキ缶が一つ置いてあるだけでした。
この拘置所で、毎日尋問を受けました。だいたい九時から十二時半までです。尋問では、毎回のように殴られました。殴りながら、彼らはよく「お前のしたことは愚かで間違ったことだ。お前はアメリカが助けに来てくれるなどと思ってるだろうが、大間違いだ!お前を助ける奴など誰もいない!こんなことをしてチベットが独立するなんてあり得ない」と怒鳴りました。次にグツァ拘置所に移され、同じような尋問が果てしなく続きました。九ヵ月後、二度とこのようなことはしないとの誓約書にサインさせられた後、釈放されました。
再び93年5月に逮捕されました。仲間の共にラサの街に独立要求のビラを貼った3日後のことでした。パルコル(八角街)にあった小さな私の店の中に、昼食時、突然6人の私服警官が現れ、私を後ろ手に縛り、自宅に連れていきました。家の前の道は警官でいっぱいでした。3時間ほど家中をかき回し、近くの派出所に連れていかれました。「印刷機を出せ!」と言うのですが、持っていませんでした。警官は私の母の所に隠してあるに違いないと、こんどは母の家を無茶苦茶にし、再び私の家を捜査するという具合でした。必ず私が印刷機を持っているはずだ、というのです。
その内諦めたのか、私は警察署に連れていかれ、小さな冷たい部屋に入れられました。そこで尋問が始まったのですが、私はその日の夜中立たされたままでした。ほんの少しでも動けば、ひどく殴られるのです。4人の警官が交代に尋問と見張りを続けていました。私は「四ヵ月の子がお腹にいるのです。どうか座らせて下さい」と何度も言ったのですが、そのたびにただ殴られるだけでした。寒さに身体が冷え切り、お腹が張って痛くてしかたありませんでした。警官は「誰に唆されてやった!」「仲間は誰だ!」「他のビラはどこにある!」と怒鳴ります。私が答えようとしないと、目の前の机の上や壁に吊してある様々の道具、竹の棒、拳銃の台尻、縄、拳固で殴られ、たばこの火を押し当てられました。
夜中の3時ごろ、4人の警官と一緒に車に乗せられました。後ろにも車が続いていました。「今から、お前は銃殺になるんだ。仲間の名を吐かないからだ」と言いながら、乗っている間中、殴られ、髪の毛を引っぱられました。一時間あまりも何処かを走り、また同じ所に帰り、同じように立たされ、尋問されました。
朝の九時ごろ4人の警官は食事に出ていき、代わりに女性の警官が入って来ました。彼女は座るようにと言ってくれました。しかし私は薄着のままとても寒い部屋で立たされ続けたせいで、身体中が石のように硬直していました。それで、座ろうとした途端、私はばったりとその場に倒れてしまいました。そのまま全身が痙攣しているように痛み、まったく動けませんでした。女性の警官は無関心そうに、ただそんな私を眺めていました。やがて同じ4人の警官が帰ってきて、私が床に転がっているのを見て「どうして立っていないのか!」と怒鳴り、蹴り、又無理やり立たせました。再び同じような尋問が続き、殴られ、髪の毛を持って引きずり回されました。
何日か後、私は大きな警察に連れていかれ、同じような尋問を受け、さらに数日後サンイップ拘置所に連れていかれました。身体中が痣だらけで痛み、頭の皮はあまりに引っぱられ過ぎて、燃えるように痛みました。何日か後の真夜中に、突然移動させられました。すぐに、狭い汚い部屋の中で椅子に縛り付けられました。何枚もの写真を見せられ「お前の知り合いがこの中に必ずいるはずだ。早く見つけないと痛い目に遭うぞ!」と脅すのでした。机の向こうから、ペンや鍵やらが顔に飛んできました。写真に写っている人たちと関係があるはずだと言っては、平手で叩くのです。電気棒を何度も顔に押し付けながら「俺たちはお前をどうにでもできるのだ!お前を飢え死にさせてもいい。子供や親たちを連れてきてもいい。俺たちの自由だ!」と怒鳴るのです。
私は弱って、気が遠くなるようでした。「お腹に子供がいるんです。どうか病院に連れていって下さい」と頼みましたが、「お前はうそをついているだけだ、誰が信じる!病院なんかに連れていく時間などない。俺たちが言う通りに答えれば、連れて行ってやってもいい」と言うばかりでした。
4日後私は全く動けなくなり、ようやく警察病院に連れて行かれました。検査の後、医者が警官に「本当に妊娠しています。今すぐ入院させないと非常に危険です」と言うのを聞きました。それでも担当の警官は同意せず、またすぐに私を拘置所に連れて帰りました。私はその頃、何も飲み下すことができず、水さえも戻してしまうのでした。それからも「どうか病院に連れて行って下さい」と何度も訴えたのですが、決して許されませんでした。それから4日後、私は独房の中で子供を流産してしまいました。隣の独房にいた人が私の叫び声を聞き、看守に知らせました。私は独房から引きずり出され、病院に連れて行かれました。私は血だらけで、気が狂っていたようでした。数日後、少し良くなったと思う頃には、また警官が病院の中で尋問を始めました。一週間後、再び拘置所に戻され、尋問と拷問が果てしなく続きました。
中国の法律では容疑者の拘留期間を6ヵ月以内と規定してあるとのことですが、私は実にこの拘置所に14ヵ月も入れられていました。一旦刑期が決まれば、刑務所に送られ、労働させられますが、毎日の尋問からは逃れられるのです。果てしない日々を死なずにやっと過ごしていました。14ヵ月後やっと簡単な裁判のようなものがあり、3年の刑期が言い渡され、ダプチ刑務所に移されました。中国はチベットには唯一この刑務所だけが存在すると言っているようです。でも実際には何百もの監獄がチベットにはあるのです。だた名前は再教育労働キャンプだとか、拘置所とか呼ばれるだけなのです。
ダプチ刑務所では、政治囚は様々な面で、一般の囚人とは別の扱いを受けました。例えば、政治囚は毎日健康にためだと言っては、軍隊式の激しい運動を強制されました。一日中これが続くこともありました。これを監督するのは軍隊の兵士でした。彼らは少しでも遅れたり倒れたりすると、それが年寄りであろうと、子供、女、病人であろうとすぐにまるで動物に対するように、殴り蹴るのです。ただじっと動かずに立ち続けるというのもよくありました。頭の上に水の入ったコップを乗せられ、膝の間に紙切れを挟みそのまま立ち続けるとか、太陽に向かい目を見開いたままでいる、とかもありました。少しでもまぶたを動かせば殴り倒されるのです。でも多くの囚人は夏など暑さで倒れる者が続出しました。刑務所側は、この運動は囚人の健康維持のためにわざわざしてやっているのだ、と言いますが、囚人にとってこれは本当に拷問以外の何ものでもありませんでした。凍えるような雨の降る夜などにも外を走らされることが良くありました。一人の尼僧がこのような過酷な運動の末死んだのを思い出します。この上にさらに労働がありました。主に私は毛糸を紡ぐ仕事をさせられました。全員に厳しいノルマが科せられ、もし夕方までに、これを達成できない時には終わるまでいつまでも働かされるのです。
3年の刑期はこうして過ぎ、刑務所を出ましたが、続く2年間は<権利剥奪>の期間とされ、常に監視され、家から2キロの距離の所に行くのにも許可がいるのでした。
私は危険を承知で、ヒマラヤを越えました。亡命した一番の目的は、外の世界の人々にできるだけチベットの特に監獄の状況を知らせることでした。最近はチベットを訪れる外国に観光客も多いのですが、ラサでは常に監視されており、接触することは非常に難しいのです。真実を伝えるためには誰かが外に行くしかないと強く思いました。今日ここで私の話を読んでくださった皆様に、深く感謝いたします。どうか、各々の国に帰られた時には、今日私が話したことを少しでも他の人々に伝えて下さい。チベットの自由と正義について話して下さい。お願いします
ダムチュは現在ルンタハウスでテイラーの仕事をしています。 |