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■ガワン・ジャムチェンの証言 私はチベットで1972年に生まれました。首都ラサ近郊にある小さな村の出身で、両親は農業を営んでいました。私が逮捕された後に、農地や羊、二十頭もいたヤクなども全て当局によって没収されてしまったため、今では何も残っていません。両親も亡くなってしまいました。母は私が刑務所から釈放されて一ヵ月後に病気で亡くなりました。父は4年ほど前に私がインドに亡命した次の年に亡くなりました。 1989年、17才になった年にラサのデプン寺にて出家しました。デプン寺では、仏教の経典などを学びましたが、それ以上に政治的なことに感化されました。幼い頃からわだかまっていた中国に対する反感がしだいにはっきりとしたものとなってきました。
私には仲の良いスンラップという僧侶がいました。彼は私と同い年でしたが、私よりも4年早く出家していました。1991年の9月24日のことです。スンラップが密かに独立要求デモを計画していることを打ち明けてくれました。デモは、3日後の9月27日、4年前に初めてデプン寺の僧侶たちがデモを行ったのと同じ日に予定されていました。それを聞いたときには一瞬戸惑いましたが、即座に自分にも参加させて欲しいと彼に頼みました。スンラップはすぐにはそれに同意せずに、よく考えてからもう一度返事が欲しいといいました。 二日間、一睡もすることできませんでした。デモを行うことは、逮捕、拷問、懲役刑を意味します。どんなに惨い拷問を受けるのか、私は先輩たちの話からよくわかっていました。時には命を落とすこともあることも……。死ぬことは怖くはありませんでした。祖国チベットのためであれば、たとえ命を犠牲にしてもかまわないのです。ですが、拷問の後遺症のために不具になったり、働けない体になってしまったら、どうしたらよいのでしょうか?まともに歩くこともできない身内を抱えて、家族は大変苦労するに違いありません。そうなったときの両親の苦労を想像すると胸が押しつぶされそうになるのでした。そうやって、二晩、悩んで一睡もできずにいました。デモ決行日がいよいよ明日にせまった26日の夜、やはりデモに行くべきだという強く決意しました。私が受ける苦しみなど、今までチベット人たちが味わってきた苦しみ、今なお中国政府によって受けている苦しみに比べたら、大したものではありません。彼らが受けている苦しみをわずかでも取り除くために、私は祖国チベットのために何かをしなければならないのです。そう決心すると、その夜はぐっすり眠れたのでした。 次の日の朝、私とスンラップは先生に農園のリンゴを摘みに行くと嘘をついて、ラサの町へ古い自転車に乗って向かいました。スンラップを後ろに乗せて、私が自転車を漕いで行きました。ラサまでは主要道路を通らずに、めだたぬように狭いわき道や農道を通り、キチュ川のほとりの方へ出ました。二人とも緊張のせいか、ほとんど会話らしい会話もせずに、私は黙ってラサへとペダルを踏み続けました。 ラサには、既にデプン寺からジャンペルとラプジョルという二人の僧侶が私たちの到着を待っていました。期待していた人数よりも少なかったので、私もスンラップもがっかりしましたが、それでもデモを始めれば多くの市民たちが参加してくれるだろうと思いました。 ジャンペルは僧衣の下にチベット国旗を隠し持っていました。古い写真を参考にして、ジャンペルが手作りしたその国旗は、お世辞にも上手いものではありませんでしたが、私たちはそれを一目見て気に入りました。チベットで掲げられている国旗は中国人民共和国の赤い国旗だけで、チベットの国旗を保持することは罪になるのです。 バルコルは私たちがデモを始める前までは、多くの買い物客や巡礼者たちで賑わっていましたが、私たちがデモを始めると同時に人々は脇へとよけ、遠巻きに見守っていました。多くの人が泣いていました。老人たちの中には、警官に捕まる前に早く逃げるようにと言ってくれる人もいました。ですが、私たちは誰もそうしようとはしませんでした。逃げ出せば、運悪く逃げそびれて捕まった者はさらに酷い拷問を受けることになるでしょう。私たちは既に死すらも受け入れる覚悟でした。
懲役五年の判決が出てしまうと、今度はダプチ刑務所へ移送されました。そこでは同じようにデモを行って懲役に服している政治囚が約100人ほどいました。そのほとんどが僧侶たちでした。青い粗末な囚人服を与えられ、それを着て五年間を過ごしました。冬は大変寒く、常に凍えていました。そのせいか、今でも青い服を着ると当時のことを思い出して、訳もなく落ち込んでしまうときがあります。
親友スンラップのことについて少しお話したいと思います。彼は私より長い10年の懲役刑を受けました。ダプチ刑務所では同房だったため、私たちの友情はさらに深まったように思います。彼は裏表のない、誰からも好かれる性格で、また大変優しい心の持ち主でした。
私はダプチ刑務所から1996年に釈放されましたが、僧院に戻ることは許されませんでした。ラサで姉がやっている小さな露天商を手伝ってみたりもしたのですが、常に私服警官に監視されていました。家の農地や家畜は全て没収されていたため、家には全く余裕もありませんでした。公安には定期的に出頭せねばならず、家にも公安がよくやってきました。夜中に突然やってくるのも稀ではありませんでした。そして、独立活動の文書などが隠していないか、家のありとあらゆる場所をひっくり返して、家宅捜査をするのです。時には、家族のものが公安に呼ばれて、尋問を受ける事もありました。家族のストレスは日に日に大きくなり、私は次第にインドに亡命する事を考えるようになりました。もはや、私の居場所はチベットのどこにもありませんでした。 プチュンとダムチュというダプチ刑務所での政治囚仲間と一緒にチベットを出ることを計画しました。今では、二人は夫婦になり、ルンタハウスで暮らしています。デキという可愛い女の子も生まれました。ダムチュはルンタハウスの洋裁工房で働き、プチュンはルンタレストランで日本食を作るシェフになりました。プチュンとは刑務所でも同房で五年を一緒に過ごした親友です。ここでも一緒なのは本当に強い縁だと思います。 私たちはネパールに抜けず、直接インドのシッキムに抜けるルートを辿りました。夜中に中国兵に見つからないように、険しい山道を歩き、日が昇ると岩陰に隠れて眠りました。幾日もそうやって山を歩き、ようやく国境を越えたところでインド人の警官に捕まってしまいました。近くの警察署に連れて行かれ、そこで五ヶ月間も拘留されたのでした。中国人とは違って、一切拷問は受けませんでしたが、食事は乏しく、大変長い五ヶ月間に感じました。チベットでは祖国チベットのために刑期を受けていると思っていましたし、励ましあえる兄弟のような仲間もたくさんいました。どんなに辛い目にあっても、自分がこうして犠牲になることで少しでもチベットのために役に立つならばと思えば、困難にも立ち向かうことができたのでした。ですが、ここではたった一人で薄暗い部屋に入れられ、先のこともわからないとなると心は暗く塞いでしまうのでした。志を同じくする仲間の存在がどんなに大事か痛感しました。 五ヶ月後に警察署から出され、真夜中に私たち三人は国境まで護送されました。国境あたりまでくると、インド兵たちは『二度と国境を越えてはならない。今度見つければ、発砲する』と言って放してくれました。中国兵たちに直接手渡たされなかったのは本当に幸いでした。私たちは岩陰に二日ほど隠れ、夜中に細心の注意を払って国境を越えました。 しばらくは成人難民のために設立された学校で英語などを学んでいましたが、気候があわないためか、体調が悪くなり、結核を患ってしまいました。完治した後は、1999年からルンタレストランでシェフとして働いていました。ダラムサラは異国ですが、ダライラマ法王がいらっしゃるところです。チベットのこと、友人たちのことを思わない日はありませんが、法王の近くに住むことができ、時々法話を聞くことができることだけでも大変恵まれていると思わざるを得ません。チベットでは法王の教えのテープを聞くことすら、許されていないのですから―――
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