チベット証言集

The case of Ngawang Jamchen

 

ソナム・ドルカ (32才)】【尼僧ガワン・ワンドン (22才)】【ジャンパ・プンツォ(71才)】【僧侶バグド (31才)
尼僧ナムドル・テンジン(29才)ダムチュ (34才)】【ロプサン・タシ (30才)
ジグメ・ギャンツォ (30才)】【ガワン・ジャムチェン (31才)


*この証言はダラムサラに亡命しているチベット難民にインタビューしたものを日本語訳したものです。

ガワン・ジャムチェンの証言

 私はチベットで1972年に生まれました。首都ラサ近郊にある小さな村の出身で、両親は農業を営んでいました。私が逮捕された後に、農地や羊、二十頭もいたヤクなども全て当局によって没収されてしまったため、今では何も残っていません。両親も亡くなってしまいました。母は私が刑務所から釈放されて一ヵ月後に病気で亡くなりました。父は4年ほど前に私がインドに亡命した次の年に亡くなりました。
 私は五人兄弟の末っ子として生まれました。私の愛する母国、チベットは1959年に中国に侵略されました。ですから、私は自由というものを知らずに育ちました。

1989年、17才になった年にラサのデプン寺にて出家しました。デプン寺では、仏教の経典などを学びましたが、それ以上に政治的なことに感化されました。幼い頃からわだかまっていた中国に対する反感がしだいにはっきりとしたものとなってきました。


私が出家する2年前の1987年に、デプン寺から21人の僧侶たちが1959年の民族蜂起以来初めての大きな独立要求デモを行いました。その日以来、たくさんの僧侶や尼僧たちがデモを行い、逮捕され、懲役を受けていました。僧院は政治的活動をする者たちの温床になっているということで、デプン寺にもたくさんの警官たちが詰めていました。高僧から仏教の法話を聞く機会は奪われ、代わりに共産党史観などを学ばされました。お寺に参拝する者たちも厳しく管理され、門の側に構えた派出所の警官たちに執拗なチェックや質問を受けるのでした。


 このような厳しい管理の中でも、私たちは時をみはからってこっそり集まっては、政治的な話をする機会を持つことができました。仲間たちとの会話の中で、私は本当のチベットの歴史、ダライラマ法王のことを知ることができたのです。やがて、私もチベットのために何かしなければ、実際に行動をとらなければという強い衝動に駆られていきました。一人で全責任を背負って、祖国チベットのために献身しているダライラマ法王のためにも、私にできることは一体何だろうと次第に考え始めたのです。

 私には仲の良いスンラップという僧侶がいました。彼は私と同い年でしたが、私よりも4年早く出家していました。1991年の9月24日のことです。スンラップが密かに独立要求デモを計画していることを打ち明けてくれました。デモは、3日後の9月27日、4年前に初めてデプン寺の僧侶たちがデモを行ったのと同じ日に予定されていました。それを聞いたときには一瞬戸惑いましたが、即座に自分にも参加させて欲しいと彼に頼みました。スンラップはすぐにはそれに同意せずに、よく考えてからもう一度返事が欲しいといいました。

二日間、一睡もすることできませんでした。デモを行うことは、逮捕、拷問、懲役刑を意味します。どんなに惨い拷問を受けるのか、私は先輩たちの話からよくわかっていました。時には命を落とすこともあることも……。死ぬことは怖くはありませんでした。祖国チベットのためであれば、たとえ命を犠牲にしてもかまわないのです。ですが、拷問の後遺症のために不具になったり、働けない体になってしまったら、どうしたらよいのでしょうか?まともに歩くこともできない身内を抱えて、家族は大変苦労するに違いありません。そうなったときの両親の苦労を想像すると胸が押しつぶされそうになるのでした。そうやって、二晩、悩んで一睡もできずにいました。デモ決行日がいよいよ明日にせまった26日の夜、やはりデモに行くべきだという強く決意しました。私が受ける苦しみなど、今までチベット人たちが味わってきた苦しみ、今なお中国政府によって受けている苦しみに比べたら、大したものではありません。彼らが受けている苦しみをわずかでも取り除くために、私は祖国チベットのために何かをしなければならないのです。そう決心すると、その夜はぐっすり眠れたのでした。

 次の日の朝、私とスンラップは先生に農園のリンゴを摘みに行くと嘘をついて、ラサの町へ古い自転車に乗って向かいました。スンラップを後ろに乗せて、私が自転車を漕いで行きました。ラサまでは主要道路を通らずに、めだたぬように狭いわき道や農道を通り、キチュ川のほとりの方へ出ました。二人とも緊張のせいか、ほとんど会話らしい会話もせずに、私は黙ってラサへとペダルを踏み続けました。

 ラサには、既にデプン寺からジャンペルとラプジョルという二人の僧侶が私たちの到着を待っていました。期待していた人数よりも少なかったので、私もスンラップもがっかりしましたが、それでもデモを始めれば多くの市民たちが参加してくれるだろうと思いました。
 私たちはジョカン寺近くの小さな食堂に入ると、モモ(チベットの餃子)を注文しました。きっと、しばらくはろくな食事にありつけないだろうとたくさん注文しましたが、不安と期待で急くような思いで胸は一杯で、味なんかまったくわからずじまいでした。

 ジャンペルは僧衣の下にチベット国旗を隠し持っていました。古い写真を参考にして、ジャンペルが手作りしたその国旗は、お世辞にも上手いものではありませんでしたが、私たちはそれを一目見て気に入りました。チベットで掲げられている国旗は中国人民共和国の赤い国旗だけで、チベットの国旗を保持することは罪になるのです。
 私とジャンペルで国旗の端を持って、頭上高く揚げ、スローガンを叫びながら、ジョカン寺のまわりの右繞道(パルコル)を回り始めました。『チベットに自由を!中国人は中国に帰れ!ダライラマ法王万歳!』私たちは大きな声で叫びました。『ダライラマ法王万歳!』と叫ぶと同時に涙が止めようもなく溢れてきました。この言葉をずっと私は口にしたかったのだ。それは決して許されなかったけども、今こうして大きく叫ぶことができることはなんと幸せな事だろう。私の胸は至福感に満たされていました。そして同時に悲しみにも。

 バルコルは私たちがデモを始める前までは、多くの買い物客や巡礼者たちで賑わっていましたが、私たちがデモを始めると同時に人々は脇へとよけ、遠巻きに見守っていました。多くの人が泣いていました。老人たちの中には、警官に捕まる前に早く逃げるようにと言ってくれる人もいました。ですが、私たちは誰もそうしようとはしませんでした。逃げ出せば、運悪く逃げそびれて捕まった者はさらに酷い拷問を受けることになるでしょう。私たちは既に死すらも受け入れる覚悟でした。

デモを始めて5分ほど経ったでしょうか。私たちは15人ほどの警官に囲まれました。国旗は破られ、私たちは地面に強くねじ伏せられました。そして近くの派出所に連行されたのです。私たちは全く抵抗しませんでした。
拷問はすでに派出所から始まりました。後ろ手に強く縛られたまま、壁に向かって立たせられると激しく殴られました。蹴られたり、棍棒で殴られたり、その痛みは想像以上でした。彼らにとってはまるでスポーツか何かのようでした。私たちはそこで気を失ってしまうまで殴られ、そしてグツァ拘置所に連れていかれました。


五年の懲役刑を受けるまでの四ヶ月間、私はそこで過ごしました。連日のように、尋問され、そして殴られました。彼らが聞きたいのは『誰がこのデモを組織したのか?背後に誰がいるのか?インドにあるチベット亡命政府と何らかの関係があるのか?』ということでした。自分たちでデモを決めただけで、亡命政府とは何の関係もないと正直に答えても、彼らは決して認めようとはしませんでした。そして、そう答える度に激しく殴られるのでした。電気棒を使って殴られ、棍棒や銃床で袋叩きにされ、タバコの火を顔に押し付けられました。薄れていく意識の中で、自分がこのまま二度と起き上がれなくなってしまうのではという恐怖を感じていました。このまま身体が言うことをきかなくなり、寝たきりの生活を強いられてしまったら、一体家族にどれほどの負担を掛けることになってしまうだろう。私は殴られながら、ひたすらダライラマ法王に祈り続けていました。どうか、私を守ってくださいと。そして仏にも祈りつづけていました。どうか、痛みに耐えることで全ての衆生の苦しみを代わりに私が引き受けることができますように。そして、全てのチベット人、すべての命あるものに幸せが訪れますようにと。

懲役五年の判決が出てしまうと、今度はダプチ刑務所へ移送されました。そこでは同じようにデモを行って懲役に服している政治囚が約100人ほどいました。そのほとんどが僧侶たちでした。青い粗末な囚人服を与えられ、それを着て五年間を過ごしました。冬は大変寒く、常に凍えていました。そのせいか、今でも青い服を着ると当時のことを思い出して、訳もなく落ち込んでしまうときがあります。


ダプチ刑務所では労働をしなければなりませんでした。私に課せられたのは、ビニールハウスでの野菜作りでした。人糞を撒くため、ハウス内の匂いは耐えがたいものでしたが、それでも私たちはノルマをこなすために必死に農作業をしなければなりませんでした。最も辛かったのは、害虫駆除のために農薬を撒かねばならなかったことです。チベット人が最も厭うのは、どんな小さな生き物でもその命を奪うことです。仏教は殺生を固く禁じています。看守たちに強いられて事とはいえ、自分が殴られるよりも辛い思いがしました。

ダプチ刑務所での待遇もやはり同じように酷いもので、看守たちは政治囚たちを目の仇にして、少しでも気に食わないことがあると暴行を加えました。そうやって、二人の仲間が刑務所で命を落としました。

親友スンラップのことについて少しお話したいと思います。彼は私より長い10年の懲役刑を受けました。ダプチ刑務所では同房だったため、私たちの友情はさらに深まったように思います。彼は裏表のない、誰からも好かれる性格で、また大変優しい心の持ち主でした。

刑務所には月に一度だけ家族との面会が許されています。たった二十分弱の面会でしたが、囚人たちはこの面会を本当に心待ちにしていました。
あるとき、スンラップの母親が面会中に具合が悪くなって倒れてしまいました。スンラップは母親を慌てて抱きかかえようとしたのですが、看守たちに押さえつけられてしまいました。母親は近くの警察病院に運ばれたのですが、危篤状態ということでした。母親がうわごとのようにスンラップの名前を呼びつづけていたため、家族は看守にスンラップが一時外出して病院へ面会に行けるように頼みましたが、許可されることはありませんでした。そして、母親は数日後に亡くなりました。訃報を聞いたスンラップと一緒に一晩中泣いたのを、昨日のことのように覚えています。
やがて、父親も後を追うようにして亡くなり、スンラップは将来への希望を失ってしまったかのように見えました。ふさぎ込む日が多かったように思います。


1996年に私が釈放され、その2年後の1998年にダプチ刑務所内で政治囚による大きな独立要求のデモが起きました。10人もの政治囚が拷問や発砲などによって亡くなったと聞いています。スンラップも腰を撃たれたと聞きました。すぐには病院に連れて行ってもらえず、看守たちはその傷口に電気棒で電気ショックを加えて喜んでいたとも聞きました。二日後に病院で治療を受ける事ができ、回復したそうですが、10年の刑期がさらに2年延ばされてしまいました。

私はダプチ刑務所から1996年に釈放されましたが、僧院に戻ることは許されませんでした。ラサで姉がやっている小さな露天商を手伝ってみたりもしたのですが、常に私服警官に監視されていました。家の農地や家畜は全て没収されていたため、家には全く余裕もありませんでした。公安には定期的に出頭せねばならず、家にも公安がよくやってきました。夜中に突然やってくるのも稀ではありませんでした。そして、独立活動の文書などが隠していないか、家のありとあらゆる場所をひっくり返して、家宅捜査をするのです。時には、家族のものが公安に呼ばれて、尋問を受ける事もありました。家族のストレスは日に日に大きくなり、私は次第にインドに亡命する事を考えるようになりました。もはや、私の居場所はチベットのどこにもありませんでした。

 プチュンとダムチュというダプチ刑務所での政治囚仲間と一緒にチベットを出ることを計画しました。今では、二人は夫婦になり、ルンタハウスで暮らしています。デキという可愛い女の子も生まれました。ダムチュはルンタハウスの洋裁工房で働き、プチュンはルンタレストランで日本食を作るシェフになりました。プチュンとは刑務所でも同房で五年を一緒に過ごした親友です。ここでも一緒なのは本当に強い縁だと思います。

 私たちはネパールに抜けず、直接インドのシッキムに抜けるルートを辿りました。夜中に中国兵に見つからないように、険しい山道を歩き、日が昇ると岩陰に隠れて眠りました。幾日もそうやって山を歩き、ようやく国境を越えたところでインド人の警官に捕まってしまいました。近くの警察署に連れて行かれ、そこで五ヶ月間も拘留されたのでした。中国人とは違って、一切拷問は受けませんでしたが、食事は乏しく、大変長い五ヶ月間に感じました。チベットでは祖国チベットのために刑期を受けていると思っていましたし、励ましあえる兄弟のような仲間もたくさんいました。どんなに辛い目にあっても、自分がこうして犠牲になることで少しでもチベットのために役に立つならばと思えば、困難にも立ち向かうことができたのでした。ですが、ここではたった一人で薄暗い部屋に入れられ、先のこともわからないとなると心は暗く塞いでしまうのでした。志を同じくする仲間の存在がどんなに大事か痛感しました。

 五ヶ月後に警察署から出され、真夜中に私たち三人は国境まで護送されました。国境あたりまでくると、インド兵たちは『二度と国境を越えてはならない。今度見つければ、発砲する』と言って放してくれました。中国兵たちに直接手渡たされなかったのは本当に幸いでした。私たちは岩陰に二日ほど隠れ、夜中に細心の注意を払って国境を越えました。

 警察署に拘留されていた間に、微罪で捕まっていた地元のチベット人に運良く知り合うことができ、彼の家の場所を教えてもらっていました。私たちは明け方近くに彼の家にたどり着くことができ、数日匿ってもらいました。そこの息子がタクシードライバーだったので、夜中にガントックまで乗せてきてもらいました。そこから、バスと鉄道を使ってダラムサラにようやく辿り着くことができたのです。

 しばらくは成人難民のために設立された学校で英語などを学んでいましたが、気候があわないためか、体調が悪くなり、結核を患ってしまいました。完治した後は、1999年からルンタレストランでシェフとして働いていました。ダラムサラは異国ですが、ダライラマ法王がいらっしゃるところです。チベットのこと、友人たちのことを思わない日はありませんが、法王の近くに住むことができ、時々法話を聞くことができることだけでも大変恵まれていると思わざるを得ません。チベットでは法王の教えのテープを聞くことすら、許されていないのですから―――



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