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◆ナム湖
弾薬はほとんど底を尽き掛けていました。疲れと劣勢になってきたことの心細さから、様々な思いに胸は揺れていました。『四つの河六つの山脈』はどうしているのだろう。私たちは『四つの河六つの山脈』が中国軍に敗れ、インドに逃れたことを知りませんでした。ダライ・ラマ法王はどうしたのだろう。無事にインドに着かれただろうか。外国の援軍はどうなったのだろうか。いや、それとも中国に捕まってしまったのだろうか。村はどうなっているだろう。戦闘と移動で疲れているはずなのに、その晩なかなか寝付けず、様々な不安が胸をよぎるのでした。姉はその時すでに捕まっていたことを私は知る余地もありませんでした。
私たちは更に北上を続けました。中国が作ったアムドからラサへの幹線道路に夜中に出て、ネンチェンタンラ山脈の標高5200メートルのチャンム峠を越え、さらに一晩掛けてナム湖に出ました。チベットで二番目に大きいと言われるナム湖は、底まで透き通った真っ青な水を湛えていました。果てしなく広く、視界は見渡す限り遥か彼方まで青い湖に占められ、湖の向こう岸はよく見えないくらいでした。周りは柔らかい草が生い茂り、ヤクの群れが静かに草を食んでいました。私たちは草原に12のテントを張り、1つのテントには約25人が寝起きしていました。2つのテントから1人の代表を選び、全部で6人が食料の調達をすることになりました。私もその中の1人でした。水はナム湖にふんだんにあるため、問題はありませんでしたが、食料はどうしようもありませんでした。遊牧民のテントに行って事情を話しては羊を分けてもらい、時々ヤクも貰うことができましたが、それでも全員の食料をまかなうには足りませんでした。偵察機が上空を飛ぶのを何度か見ました。このままナム湖にいるのは危険でした。武器の不足は深刻な問題で、今攻撃されたらひとたまりもありませんでした。
ネンチェン・タングラ山脈とナム湖の間は、広々とした草原が広がっていました。私たちはタシドと呼ばれる湖のほとりに出ると、そこでセンパ・テージクマという部族の遊牧民に迎えられました。彼らは私たちの到来を大変喜んでくれました。遊牧民の長である老人はなかなか意気盛んで
「私たちの部族も一緒に戦いたい。武器も結構あるぞ」
と言ってくれました。願ってもいない申し出に、私たちは歓喜しました。彼らが加わることで私たちは一気に1000人程の部隊に膨れ上がったのです。食料も武器の問題も解消し、部隊の士気は上がりました。また、私たちは比較的守りやすい土地に陣営していました。東側には険しいニィンチェン・タングラ山脈、西側にはナム湖があり、中国兵が攻めてくるところは限られていました。私たちは草原の北側と南側を二手に分かれて守ろうということになりました。
一週間後の早朝、大勢の中国兵が南北側から攻めて来ました。あの広い草原が人で一杯になる程の数の中国兵でした。東側を守っていた遊牧民たちは、数時間しか持ちこたえることが出来ず、昼前には全滅したという知らせが入って来ました。私たちの方も苦戦していました。チベット人1人に対して中国兵15人という割合です。やがて反対側からも遊牧民を倒した中国兵たちが攻めてきました。挟み撃ちされては、どうしようもありませんでした。仲間たちが撃たれては、湖に投げ込まれました。馬やヤクも殺されて湖に落とされ、遊牧民の女性たちは子供を抱いて湖に飛び込みました。美しい深い青色を湛えていた湖は、いつしか血で真っ赤に染まっていました。サンペルは、大きな声で「山へ逃げるぞ」と皆に声を掛けると、ネンチェン・タングラ山脈へ向けてすごい勢いで馬を駆けさせました。私も急いでポニーに飛び乗ると、一目散にサンペルの後を追いました。中国兵の目につかない谷間の窪みに入り込むと、上から湧き水が流れ落ちてくる崖をポニーを引き上げながら登らねばなりませんでした。水が絶えまず流れ落ち、足場は不安定で少し這い上がってはずり落ち、それを何度も繰り返しては登り続けました。ようやく山上に辿り着いた時には、手の指は血だらけになっていました。仲間は100人ほどに減っていました。ナムギャル寺からずっと一緒だったダムチュがいませんでした。彼は捕えられ、その後刑務所で1962年に亡くなったと聞いています。
手持ちの食料は尽きていました。皆取るものも取り敢えず、逃げるしかなかったからです。夜になるのを待ち、チャンモ峠に戻ることになりました。途中で遊牧民に逢い、食料を分けてもらい、その場をしのぎました。夜中、馬に乗り、とぼとぼと峠を目指しました。翌朝、中国の偵察機が上空を飛ぶのが見えました。飛び去る偵察機を見ながら、とても悲しい気持ちになりました。私たちの居場所を突き止めて、すぐに中国はやってくるでしょう。けれども、私たちには銃に詰める弾薬どころか今晩の胃に入れる食料すらないのです。皆憔悴しきっており、これからどうしたらいいか皆目分からない状態でした。誰かが再びペンポに戻ろうと言いました。
「ペンポのミキカというところに『四つの河六つの山脈』が野営していると遊牧民から聞いた。確かなことはよくわからないが、行ってみようではないか。彼らと合流して戦おう」多くの者からそうしようという声が上がりましたが、サンペルは賛成しませんでした。サンペルの肩の傷は化膿しひどく膿んでいました。
「私はもうまったく役にたたない。ただのお荷物だ。私は降参し、中国軍に自首するよ。皆も解散しよう」
サンペルがそう告げると、一瞬、水を打ったように静まり返りました。誰もが言葉を失っているところへ、カム出身のラワン・タルがまず最初に口を開きました。
「そんな悲しいことを言わないでくれ。私は、祖国チベットのために、妻や子供を残して村を出たんだ。生半可な覚悟ではない。チベットのために殉死するつもりですらいる。それを今さら国に戻れとは、そんな悲しいことを言わないでくれ。俺はあくまで最後まで戦う」
私も同じ意見でした。
「私も最後までチベットのために戦う覚悟だ。まず一緒にペンポに戻り、態勢を立て直そうではないか」
意見は二つに分かれ、サンペルとサンペルの子供たち、他に2,3人の兵士が抜けることになり、私たちは全部で75人ほどの義勇団として戦っていくことになりました。
◆ペンポを目指して
私たちは、次の日、サンペルたちと別れました。それっきり、サンペルと二度と逢うことはありませんでした。サンペルは北上し、中国に見つかった場合は降参するつもりだと言っていました。私たちは『四つの河六つの山脈』との合流にわずかな希望を抱いて、ペンポを目指すことになりました。地元の遊牧民を道案内に雇い、夜中に幹線道路を渡るつもりでした。今、見つかってしまったら元も子もありません。弾薬はほとんどなかったのです。闇に紛れて少しずつ、馬を進めていきました。私のポニーにはセラ寺のチャンパ・ユンテンとアユの二人の僧侶が一緒に乗っていました。3人の重みでポニーは疲れたのか、とぼとぼと足を運んでいました。幹線道路までは後少しの道乗りの筈でした。ところが、遊牧民は道を誤ってしまい、中国共産党軍が空港として使っている敷地へと迷い込んでしまったのです。突然の警備兵の放つ銃声に驚いたときには後の祭でした。私たちは四方八方に逃げ去りました。照明弾が背後で打ち上げられて、辺りは突然明るく照らし出され、私は必死でポニーを走らせ、ニィンチェン・タングラ山脈へと戻りました。中国兵の追跡をなんとか巻き、しばらく進むと遠く山間に小さな明りがポツンと灯っているのが目に入りました。私たちは遊牧民の焚く火だと思い、そちらに必死でポニーを飛ばしました。やがてテントに近づくと、ポニーから降りて中に入って行きました。中には5人の家族が住んでいました。私たちが昨日から何も食べてないことを知ると、遊牧民の家族はツァンパと熱いミルクを一杯差し出してくれました。けれども、のんびりしているわけには行かず、中国共産党軍の追手を恐れてすぐに出発しました。しかし、この暗闇の中を一体どこに行けばいいのか全く見当がつきません。心細い思いをしながら、ニィンチェン・タングラ山脈を彷徨っていました。
しばらくいくと、仲間に出会うことができました。ガンデン・チュユル寺の僧侶2人でした。互いの無事を確かめ合い、一緒に山の奥へと入って行きました。遠くに遊牧民のテントから洩れる灯りがあるのを認めると、私たちはそちらの方へ進みました。テントの側まで近づくと、犬が私たちに気付いて盛んに吠えてきました。中から人が出て来て、私たちは誘われるままにテントの中へと入りました。熱いバター茶を碗に注いでくれ、私たちに勧めてくれました。私たちは遊牧民にこのあたりの状況を聞きました。
「この山を一時間程上に登ると大きなテントがあるという話しだ。チベット人ゲリラが野営しているらしい。400人ぐらいいるらしいぞ」
この話を聞いて私たちは飛び上がらんばかりに喜びました。『四つの河六つの山脈』に違いない。希望が見えて来たように思いました。私たちはテントを後にすると急いでその方向へ登って行きました。期待に胸が熱くなり、嬉しくて仕方ありませんでした。
小一時間ポニーとともに勾配を登り、大きな焚火を目にすると私たちは『四つの河六つの山脈』に間違いないと確信し、喜び勇んで火の方へと進んでいきました。けれども、そこにいたのは『四つの河六つの山脈』の兵士ではなく、疲れきった私たちの仲間が50人程いるだけでした。私は落胆しましたが、それでも仲間との再会は嬉しいものでした。75人いた仲間は、55人に減っていました。
「ここにこのままいては危険だ。いつ中国兵がやってくるかわからないぞ。やはり早く幹線道路を越えて、向こう側のバガダムの山へ逃れよう」
そう決めると交代で見張りに立つことにして、私は疲れのせいかすぐに眠りに落ちてしまいました。
次の日の早朝5時には出発の準備に取り掛かりました。ちょうどその時「中国人がやってくるぞ」と遊牧民が声を張り上げました。もう絶望的でした。私たちにはほとんど弾薬は残っていませんでした。逃げようにも敵はすぐそこまで迫って来ており、どう進路を取ったところで捕まってしまうでしょう。私たちは腹を括って、最後の最後まで戦おうと決め、馬を安全なところに移すと、大きな岩陰に身を潜めてじっとしていました。心臓が高なり、息苦しさを覚えながらも、ただじっと岩に背を持たれて遠くの山を見ていました。これが最後の戦いになるだろうと思うと祈らずにはいられませんでした。どうか来世は命あるものたちをより多く助けることができる人に生まれますようにと祈願し、仏を賛える経を静かに唱えていました。山の天候は変わりやすく、そうしているうちに雨雲が立ちこめ、やがて大粒の雨が降り出しました。雨はすぐに雹に変わり、辺りはすぐ真っ白になってしまいました。幸いなことに、その後、霧が出始め、何も見えない状態になってしまったのです。私たちは、今だとばかりに馬の手綱を取ると、中国軍が足止めをくらっている間に急いでバガダムへと馬を走らせました。
バガダムへ行くためには、どうしても幹線道路を横切らなければなりません。真夜中になるまで身を潜め、辺りを注意して、道路を渡り始めました。けれども、道の途中まで差し掛かった時に、運悪く中国共産党軍の車に見つかってしまったのです。私たちは軍用車のライトに照らし出され、機関銃の一斉射撃を浴びました。私はポニーを夢中で走らせ、そのまま道路を突っ切り、山へと掛け上がりました。どれくらい走ったでしょうか。ポニーが疲れ果てて足を止めてしまうと、私はポニーから降りて、手綱を引いて山を登りました。とうとう、私とポニーだけになってしまいました。私もポニーもくたくたで、憔悴しきっていました。重い足を引きずりながら、山の頂上付近まで来ると、ポニーはもう一歩も歩かなくなりました。私は座り込むと、ポニーの首に紐を結び付け、紐の端を自分の腕に巻つけて、そのままポニーに体を預けて深い眠りに落ちて行きました。
翌朝目が覚めると、ポニーはすでに立ち上がって周りの草をゆっくりと食んでいました。仲間の安否が胸をかすめました。昨夜のあの激しい機関銃の前に一体何人が生き延びることができたでしょうか。弟たち、仲間の一人一人の顔が浮かびました。悲しみと疲れ、空腹感で私は起き上がることも出来ずにいました。一握りのツァンパすら残っていませんでした。私にあるものと言えば、ぼろぼろになった服、擦り切れた靴、たった一つの弾丸しか残っていない銃、そして小さい仏像の入ったお守りだけでした。馬に乗ると、故郷のペンポに戻る道をひたすら進んで行きました。そしてようやく私の故郷にほど近いナモという村に辿り付きました。そこの村人たちは私の家族のことをよく知っていました。
「お前の母親、姉は中国に捕まってしまったぞ。中国人たちはお前が降参すれば母たちを釈放すると言っている」
私はそう聞くと覚悟を決め、降参することにしました。長い戦いの日々でした。私にはもう食べるものもなければ、弾丸もなく、雨が降ってずぶぬれになっても着替える服すらありませんでした。
◆降参
次の日、ペンポに戻ると今では中国人たちが役所に向かいました。ペンポは中国人の役人と兵士だらけになっていました。私は頭に銃を掲げ、降参の意志があることを示す仕草をしたまま、役所の中に入って行きました。中国人の反応は以外でした。捕まるかと覚悟していたのですが、彼らは笑い掛けながらこう言ったのです。
「戦闘は疲れただろう。まあ、ゆっくりしたまえ」
私は自分の耳を疑いました。彼らは握手さえ求めてきました。
「一つ質問がしたい。一緒に戦っていた他の仲間はどうしているのか」
「皆ばらばらになってしまったのでわかりません」
と答えました。彼らは
「早速、母親を釈放しよう」
とにこやかな雰囲気を崩さず続けました。私は姉のことも気掛かりでした。
「姉も釈放してください」
と頼みました。姉には11才と9才になる子供がいたのです。
「ラサの刑務所にいるから今すぐというのは無理だが、できるだけ早く家に帰れるように手を打とう。まあ、ひさしぶりに家に帰るのではないか。しばらく静養してゆっくりするといい。明日また家に行くとしよう」
私は中国人のあまりにも予想と異なる態度にいささか戸惑いを感じながら、家へと戻りました。
家には一緒に戦った2人の弟、ニマ・ダクパとツォニがいました。はぐれてしまってから安否が心配で仕方なかったのですが、2人とも母のこと知り3日程前に降参していました。戦闘には加わらなかったもう1人の弟、イシェ・サムテンもいました。母はその日の夕方に釈放されて戻って来ました。母は馬小屋の中に入れられていたと聞いていました。すっかり体調を崩し、弱り切った母との再会は心が押し潰されそうに辛いものでした。兄弟で母を抱きしめては涙に暮れました。
「私のことは気にしなくてもいいのだよ。お前たちが無事ならばそれでいいのだよ」
母はそう何度も繰り返していました。放牧地に行っていた父も帰ってきて、私たちはいろんなことを話しました。『四つの河六つの山脈』に加わっていた弟ソナム・ペンパが捕まりラサの刑務所に入れられたこと、ダライ・ラマ法王が無事にインドに亡命したことを知りました。法王は私たちの頼みの全てでした。間もなく法王が助けて下さる、こんなひどい状況から必ず救って下さる。そう信じて止みませんでした。
次の日、早速中国人の役人と兵士たちが家にやってきました。
「あさって集会があるので必ず出席するように。お前には皆の前で話してもらいたいことがある。どうして戦争を始めたのか。どんな苦労をしたのか。そしてどうして降参したのかを話すのだ」
中国人の役人は命令口調でこう言いました。
「私は口下手ですし、話すこともそんなにありません」
と辞退しましたが、彼は引きませんでした。
「いや、ぜひ話して欲しい。お前が話せば、まだ戦闘を続けている者が改心して降参するだろう。共産党が正しいということと共産党に従わなければ他に行き場がないということを皆に伝えればいいのだ。共産党には絶対服従すべきで、昔のように仏教やダライ・ラマに帰依しても仕方無いということを話せばいいのだ」
私は唖然として黙っていました。
「第一、降参は村のためになる。戦いが続けば、村人は苦しむばかりだ。中国共産党の下でおとなしく暮らすことが最も良い策であることはお前も身を持って知ったことだろう。そう説明すればいいのだ」
姉がまだ釈放されてなかったため、従わないわけにはいきませんでした。中国人たちは私の承諾を再三確認して引き上げて行きました。
集会の日、私は気が進まないまま出席をせねばなりませんでした。中国人たちは本当に集会が好きなようでした。その後の人生で、一体何度「集会」と名前のついたものに出席せねばならなかったことか。私は最初に名前を呼ばれました。
「共産党の政策は思いもよらずいいものでした。母を釈放し、姉の釈放を約束してくれました。まずここでお礼を述べたいと思います。ありがとうございます。私と一緒に戦った友たちは今どうしているかわかりません。生き残っている者は少ないと思います。彼らのすみやかな降参を望みます。中国人たちの対応がとてもいいのを実感しています」
次の日から中国人たちは毎日のように家に押しかけ、家の中を隅々まで調べ上げました。
「お前の家にある馬等の家畜の数、お碗の数まで紙に書け。次の集会のときに民衆の前で一つ一つ吟味しなければならない。これらの物はお前たちが苦労し、骨を折って手に入れたものではない。民衆から搾取したもの、取り上げたものである。お前たちのような者を「富農」というのだ。加えてお前たち兄弟は中国人を殺した。お前たちを解放しに来た恩ある者たちを殺したのだ」
そういってわめきちらし、私たちを責め続けました。母は心労が募ってだんだん寝込む日が多くなりました。そんな母を見る度に心が痛みました。
しばらくすると村中からありとあらゆる農具が没収されることになりました。
「農具は武器と同じである。農具を保持するものは武器を保持するのに等しい。全ての農具を共産党へ差し出すように。隠し持っていた者はすべて監獄行きである」
しかし農具がなければ、畑を耕すことも草を刈ることもできません。村人たちはなんとかこの横暴な注文を取り下げてくれるようにと陳情に行きました。
「農具無しでは私たちは仕事をすることが出来なくなります。村では食えなくなるものが続出してしまいます」
「お前たちが余計に働けば済むことだ。昔はみな農具無しでやっていたではないか」
中国人たちは全く取り合ってくれませんでした。そして全ての農具が取り上げられてしまったのです。
姉の釈放の日はいつまで経っても来ませんでした。私は、姉と弟のソナム・ペンパに会いにラサに行くことにしました。役所に行き、なんとかラサに行く許可を取ると、姉たちに差し入れするツァンパと干肉を持ってラサへと向かいました。馬に乗ってラサへ着くと、寺だった建物のほとんどが刑務所に使われていました。
まずソナム・ペンパが収監されている寺を尋ねました。立ち入りが許されて、寺の中に入ると、離れた畑の中で働かされている弟の姿が見えました。食事も録に与えられてないらしく、痩せこけた弟は肥料を山積みにした荷台をその細い肩で引っぱって畑へと散布していました。私はすぐにでも弟のそばによって、村から持ってきたツァンパと干肉を渡そうと思いましたが、許されませんでした。看守に何度も頼んだのですが、認めてはもらえませんでした。弟と一言も言葉を交すことが出来ないまま私は刑務所を去らねばなりませんでした。弟は10年の懲役刑を受けていました。その日がソナム・ペンパの姿を見た最後でした。弟はまもなく餓死してしまったのです。食べることのできる物ならば、草や虫すらも口にしたと後に人から聞きました。
ナムギャル寺の老僧ネンダクとイシェ・チョペルもラサの別の刑務所にいると聞き、会いに行きました。老人たちは別の刑務所に収監されていましたが、同じように労働を課せられていました。その刑務所には他に知り合いの老僧が収監されていましたが、恩師のトプテン・テンダル師の行方がわからないままでした。また、姉にも会えませんでした。ラサにいたデプン寺の叔父も家を没収され、刑務所に入れられたと聞きましたが、会うことはできませんでした。
村に対する締め付けは厳しくなる一方でした。村人全員が参加せねばならない集会が連日のように開かれました。
「悪名高き三者(ガタチェンボスム)とは何か」
あるとき中国人はこう聞いてきました。みな何のことかさっぱりわかりませんでした。
「ダライ・ラマ、僧院、貴族たち特権階級の三者のことだ。こいつらは我々の敵である。人民のために良き計らいをするなどとほざきながら、実際は搾取していただけなのだ。こいつらを批判せよ。分裂主義者を批判せよ。糾弾し、抹殺せよ」
「全ての収入と財産を共産党に提出しなければならない。月ごとの収入、年間収入、家畜の数、家畜から採れるミルクの量、畑の穀高、すべて漏らすことのないように党に報告せよ。トルコ石や珊瑚のピアス、ネックレス等の装身具などの贅沢品も全て党に報告せよ」
中国人たちは家にやって来て虱つぶしに調べました。
「牛は何頭いるのか。ヤクは何頭いるのか」
「『富農』たちの財産は苦労して手に入れたものではない。すべて人民が汗水流して作ったものを搾取したに過ぎない。本来ならば人民のものだ。故に、我々人民政府にその権利がある」
威圧的な態度で中国人たちは怒鳴り立てました。村の誰もが塞ぎこみ、いつしか全く笑わなくなりました。自由に移動することも、農作業をすることもできなくなりました。羊の世話をしていた村の若い娘が3人、どこかに連れて行かれ、代わりに年寄りがその仕事につくように命じられました。私は中国人たちの雑用係りのような仕事をさせられました。そして、連日ように、朝から晩まで何度も集会が開かれました。
「昔のチベット政府が発行した証書が家にあるものは残らず出せ。出さなければ糾弾の対象になるだけだ」
中国人たちは証書を出さなかったソナム・ゲルポを集会のとき糾弾し、散々殴りつけ、逮捕しました。ソナム・ゲルポはどこかの刑務所へと連れて行かれました。
「こいつのようにまだ白状していないものがいるはずだ。『悪名高き三者』との関係を未だに続けているものは容赦しない」
集会の数は日毎に増えてきました。それは個人を攻撃する批判集会(タムジン)となりました。地面に跪くか中屈みの姿勢で下を向いて立たされ、犯した『罪』を責められるのです。ダライ・ラマ法王や仏教を信仰しているだとか、共産党に反抗しているといった『罪』があげられました。子供が親を糾弾するといったこともありました。いつか父も母もこんな目に逢うのだろうか、一体村はどうなっていくのだろうか、と不安で押しつぶされそうな日々が続きました。
ある日、姉がタムジンにさらされる番がやってきました。姉はラサの刑務所から後手に縛られて馬に乗せられてやってきました。久しぶりに見た姉は痩せこけて別人のようになっていました。姉は村人たちの前に連れてこられ、中屈みの姿勢でじっと糾弾に耐えていました。心配で母や父も来ていました。
「お前の家族はとんでもない奴らだ。兄弟が3人も中国人に対して銃を向けた。お前に関係が無いとは言わせない」
村人の中から姉と関わりのあった人たちが順番に姉の前に引っ張りだされ、糾弾することを命じられました。拒否すると、次はその人が糾弾されるのです。しかたなく、人よりも多くツァンパを食べていた等の『罪』を挙げて、姉を殴らねばなりませんでした。姉のタムジンは二日も続けられました。中国人たちは幼い少女たちにまで、タムジンでの罵声の浴びせ方、手の叩き方、足の踏み鳴らし方を教えていました。こんな小さな子までもが姉に石を投げつけることを強制されていました。私たち家族はタムジンの間涙が止まりませんでした。
◆逮捕
途方もなく長く感じられた1959年が終わろうとしていました。中国人たちはとうとう1匹の雌ヤクだけを残して、全ての家畜を私たち家族から取り上げてしまいました。私たちは10人家族だったのです。生活はとても苦しくなり、どうしてよいのか皆途方に暮れてしまいました。
ある日、中国兵たちがやってきて、家の中を物色し始めました。そして家具や食器類を没収してしまいました。中国兵たちはベッドの下に隠して置いた鎌を見つけるとものすごい剣幕で怒鳴り立てました。
「これは一体どうしたのか!」
遊牧民から預かったものだったのですが、一番下の弟ツォニが立ち上がり、自分のものだといいました。
「私が隠しました」
私は即座に弟をかばいました。
「いや、隠したのは私です。弟ではありません」
「どうして黙っていたのか」
「山へ薪をとりに行くときに見つけて持っていました。ついうっかり報告するのを忘れていました」
「だいたいお前たちのようにバターや肉を食っているものは贅沢者の証拠だ。いつも党に反抗している。刑務所に入れるしかないようだな」
私たち2人はその場で逮捕され、柱に縛られました。やがて作業から戻って来た弟たち、イシェ・サムテンとニマ・ダクパも逮捕され、連行されました。家には年老いた両親と姉の幼い子供、尼僧たちだけが残されました。
私たち兄弟が留置所として収監されたのは、村のリンチェンダク寺の本堂でした。今では僧侶の姿はどこにもなく、村人たちを拘留する建物として使われていました。160人ほどの囚人がいました。姉もタムジン以来、この留置所にいました。囚人同士での会話は固く禁じられ、たった一言、言葉を交しただけでも殴られました。水と一握りのツァンパが一日二度与えられるだけで、空腹感は耐え難いものでした。しばらくするとみな目が窪み、肋骨が浮き出し腹だけが突き出て来ました。仏画にある六道輪廻の餓鬼の絵とそっくりでした。年老いたもの、体の弱っていたものたちから餓死していきました。高僧たちも亡くなりました。ゲレク・ケルサン、イシェ・ドンデン、シェラプ・ドンデン、ガワン・ラブテン。皆、高僧として敬われていた者たちです。ラディン寺の高僧ツェンデン・リンポチェも亡くなりました。徳の高い僧として皆の尊敬を受けて止まなかった高僧でした。そこでは、囚人の半分近くが餓死したのではないでしょうか。ある夜、隣のベッドから声が聞こえて来たことをよく今でも思い出します。
「三宝よ。どうか私の運命をはっきりとお定め下さい。このままでは耐えていくには辛すぎます。ダライ・ラマ法王よ、どうか助けてください」
留置所では、私たちは労働を課せられました。山野を開墾する仕事が課せられ、私の仕事はトイレ用の穴から糞尿を汲みだし、肥料として畑に蒔くことでした。汲みだしの仕事は僧侶だった者たちの仕事でした。
「今まで農民を搾取し、非生産的な事をやり続けていた報いだ。よく味わうがよい。今まで何もせずにぬくぬくとうまいものだけを食べてきた罰を受けているのだ」
私たちは素手で作業せねばなりませんでした。僧院の壁に掛けられていた布製の仏画で作った袋を使い、トイレと畑の往復をせねばなりませんでした。尋問にも時々呼び出されました。
「どうして我が共産党と偉大な舵取り毛沢東首席に刃向かったのだ」
彼らが聞くことは毎回同じでした。私はいつも黙っていました。そのたびに激しく殴られ、罵られました。
1960年10月のある日、セラ寺の僧侶であったロプサン・トプデンと俗人のタシ・プンツォ、クンガの三人に死刑が宣告され、村人の集まる広場で公開処刑されることになりました。私は銃声を留置所の中で聞きました。その夜、どんなに待っても彼らは戻ってきませんでした。
「いつまでも刃向かう者は死刑にするぞ」
中国人たちは囚人たちに口癖のように言っていましたが、それが本当のことだと思い知らされました。翌日の集会で囚人たちを前に看守が話しました。
「この中にまだ死刑になるべき者がいるはずだ。一人一人いままでやったことを話せ。黙っているとそいつから死刑にするぞ。お前は何をしたか言ってみろ」
一番年下の弟ツォニを指差しました。弟はただ震えているばかりで、一言も発することが出来ずにいました。額から冷や汗がしたたり落ちていました。
「お前を今すぐ死刑場に連れてはいかない。しかしそのうち死刑にするぞ。まあ、そんなに恐れるな。本当に恐れなければならないときはお前が死刑場に連れて行かれた時だ。党に逆らったらどんなことになるかよく心しておくがいい」
誰もが中国人が平気で囚人たちを死刑にするということがわかり、逆らうことはできないと身に染みました。
◆18年の懲役
1961年4月、囚人たちはみな外に出され、整列させられました。中国人たちは椅子に座り一人一人の刑期を言い渡しました。私には国家反逆罪を犯したとして18年の懲役刑とシャモ6年が言い渡されました。シャモとは市民権が剥奪され、自由に移動することも働くことも出来ないことをいいます。わずかな給料がもらえ、部屋に鍵が掛けられていないというだけで、囚人とほとんど変わり無い状況に置かれるのでした。姉には10年の懲役と10年のシャモ。すぐ下の弟イシェ・サムテンには10年の懲役。次の弟ニマ・ダクパには8年の懲役、シャモ1年。一番下の弟ツォニには私と同じ18年の懲役とシャモ6年がそれぞれ言い渡されました。
刑期が言い渡されると、私たちはラサの北にある、セラ寺とデプン寺の間に位置するバリリトゥ寺に移されました。そこもやはり刑務所に使われていました。その刑務所には100人程の囚人がいました。私たちは広い本堂に押し込められました。以前ならば仏像が安置され、バターランプが灯され、仏画が壁中に掛けてあったはずのその本道は、今はただ広いだけの倉庫のようなところになっていました。姉たち女性は上の階へ、また60才以上の年寄りも別の部屋に分かれて収監されていました。姉は私たち弟のことを気づかい、本当にわずかな量のツァンパしか配分されないというのに、毎日のツァンパの中から半分を私たち弟たちのために取っておいてくれて、それを私たちに順番に分けてくれました。
ラサに移されてから間もなくして父が亡くなったという知らせが入って来ました。全ての財産を奪われ、6人の子供たち全員が刑務所に入れられてしまい、長い懲役刑を受け、父にとってこの事実は生きていくにはあまりにも耐え難いことだったに違いありません。私たちの刑期が決まると同時に病床につき、回復することなくそのまま亡くなったと聞きました。無口な父で愚痴をこぼしたりしたことは一度もありませんでした。心の奥ではどんなにか辛かったことでしょうか。私は、18年という途方もなく長い刑期を受け、父の死を知らされて、すっかり落ち込んでしまいました。お経を唱え、仏を供養して何百年も続いてきた寺はすべて刑務所と化してしまいました。一体、母はどのようにして暮らしているのでしょうか。栄養失調のため目もよく見えなくなり、起き上がる気力もなくしていました。あんな状況の中でも、なんとか生き伸びることができたのは、ダライ・ラマ法王へ信仰心があったからです。生きいさえすれば、再びダライ・ラマ法王にお会いできる日が来るかも知れない、それだけが生きる希望でした。
ラサでも畑での作業を課せられました。絶え間無い空腹感に苛まれ、毎日やっとの思いで体を動かしていました。労働の最中で倒れる者も少なくありませんでした。このままでは皆飢えて死んでしまう。ギリギリの状態だった私たちは食事配給の際に量を増やしてもらうように訴えることにしました。その役は私が引き受けました。中国人たちの冷ややかな反応は予測出来ましたが、何も言わないよりもましだろうと思っていました。次の日、いつものように一握りのツァンパと一杯の茶が配られようとしていました。私の前まで配給係りが来ました。
「このままでは飢え死にしてしまいます。どうかもっとツァンパの量を増やしてくれませんか」
配給係りはちらっと私を見ると
「上の者に伝えよう」
とだけ言いました。
まもなく私は別室に呼ばれました。
「他の者はみな満足しているのに、どうしてお前だけが腹が減るのか」
中国人たちは顔に怒りを浮かべていました。
「皆同じように飢えています。このままでは働くことができなくなってしまいます」
「それが本当ならば党に報告せねばならない」
「本当に飢えているのです。これは皆からの希望なのです」
中国人たちは鼻でせせら笑いをしました。
「いや、お前だけだろう。お前は昔僧侶だったからだな。あんなにいい食事をしていれば何を食べても満足はできまい。狼が草を食べても腹一杯にならないのと一緒だ。他の者はお腹一杯になっているというのに、お前だけがならないのだ」
そして私の手足を手錠と足枷で縛ると押し倒し、何度も蹴りつけました。激しい痛みに気を失いそうになりまましたが、その度に立たせられて「共産党に逆らいません」と言わなければなりませんでした。2ヵ月もの間、手錠と足枷は外されませんでした。隣で寝ていたジャンペル・ウーセルがトイレの時や食事の時に手伝ってくれました。手足がままならない状態でも畑仕事はしなければなりませんでした。それでも私はまだ良い方でした。経を唱えた、ダライ・ラマ法王を信仰している、党に逆らったといった理由で何人もが死刑になっていくのをみてきましたから。
約1年後、私たち兄弟はイシェ・サムテンを除いて、ペンポに戻され、刑務所として使われていたゲトゥ寺に移されました。イシェ・サムテンは東のコンポ地方へと移されました。コンポ地方は森林地帯で、そこに送られた者は開墾や伐採の仕事に従事させられ、飢えと激しい労働のために多くの死者が出ていると聞いていました。弟もコンポ地方に送られてから、1年が経たないうちに餓死してしまいました。
◆文化大革命
1964年、文化大革命が始まりました。タムジンが連日のように刑務所でも開かれました。
「四つの悪い習慣をなくせ。古い思想、文化、習慣、風俗をなくせ。仏教の在家修行者の着る赤い服、僧衣にすべて火をつけろ。香を焚くな。仏壇、仏像はもってのほかだ。お経は全て火に燃やせ。寺の飾りも仏像も全部叩き壊せ。仏教などは信じるに値しない。来世、前世の話しなどは言語道断だ。業果としての地獄の話し、極楽の話も決してしてはならない。首飾り、トルコ石、珊瑚などの贅沢品を捨てよ。古い習慣である木のお椀、茶をつくるドンモ、ポットを壊せ。髪の長い者は切れ。尊敬語を使うな。我々は皆平等である。正月や昔ながらの祝日を祝うな。今からそんなものはないのだ。古い習慣、風俗は全てやめるように。文字は全て中国語のみだ」
ペンポには大きな仏像が三つありましたが、全て村人たちの手で壊さなければなりませんでした。私たち囚人も駆り出され、怒鳴りまくる中国人たちから命令されるがままに仏像を叩き壊さねばなりませんでした。経典の入ったマニ車、護法尊、供養塔、長い時を掛けてチベット人たちが築き上げて来た大切なものが一瞬にうちに見るも無残な瓦礫の山に変わってしまいました。私はチベットの守護神パルデン・ラモの仏像を壊さねばなりませんでした。心の中では経を唱えながらパルデン・ラモに謝り続けていました。刑務所に使われていなかった寺は壊されるか、さもなければ家畜小屋や肥料置き場にされました。こうしてペンポにあった寺も仏像も消えてしまいました。タムジンでは僧侶だった者が糾弾の対象になりました。思い出すにも辛い、悲しい光景でした。思いつく限りの屈辱と拷問が連日のように行われました。本当に恐ろしい、おぞましい日々でした。縛り上げられ、殴られ、蹴られ、糾弾を受けた者はいつも血だらけでした。ある者は目をくりぬかれ、ある者は舌を引き抜かれました。そうやって拷問を受け、一晩中木につり下げられることもありました。タムジンの最中であまりの痛みに狂う者もいました。私も二度糾弾されました。ツェリン・ペンジョルが糾弾されたとき「ああ頼むから殺して欲しい」と泣きながら懇願していたのを覚えています。中国人たちは笑っていました。
「まあそうあせるな。ゆっくり殺すから」
親友のロプサン・ゲンツェンが糾弾されたときのことでした。木から吊り下げられたまま殴られていました。中国人たちはロプサン・ゲンツェンに何度も聞きました。
「お前はどうしようもなく古い考えの持ち主だな。お前の友達は誰だ。そいつも同じように古い考えに縛られている者だろう。そいつも糾弾せねばならぬ」
どんなに殴られても、彼は決して答えようとしませんでした。私は「自分です」と叫ぼうと思いましたが、体が震えるばかりでどうしても口に出来ず、ただ立ちすくむばかりでした。今でも心が強く痛む思い出です。
ある日、村から人が訪ねて来て、母が死んだということを知らされました。村からこの刑務所までは同じペンポと言っても山を越えねばならず、半日程掛かりましたが、訃報を伝えにわざわざ来てくれたのでした。母はタムジンの最中に死にました。反逆分子の母親ということで糾弾を受け、殴り殺されたのです。一番下の弟ツォニはそれを聞くと声を上げて泣き出しました。私は弟を慰めようにも言葉が全く浮かんで来ず、呆然としていました。母は一度だけこの刑務所に訪ねてきてくれたことがあります。年と心労のため足腰はここ数年の間にめっきり弱くなっていたのに、体の無理を押して逢いに来てくれたのでした。母は最後にこう言っていました。それが母から聞いた最後の言葉になってしまいました。
「あと少しの辛抱だよ。ダライ・ラマ法王がもうじき助けて下さる。それまで希望を捨ててはいけないよ」
◆コンポへ
1964年5月、ペンポから遠く離れた森林地帯コンポ地方に移されました。12台のトラックに250人程の囚人が乗せられ、朝早くペンポを出発しました。姉はペンポに残され、男性の囚人たちだけが移動することになりました。弟たちも一緒でした。トラックには白い垂れ幕が掛かっており、チベット語で毛沢東の言葉が書いてありました。
「民衆が立ち上がる」
そう読めました。一昼夜過ぎると、コンポ地方に入り、トラックは鬱蒼とした森の中を走るようになりました。昼間でも生い茂る木に遮られて陽が届かず、薄暗く不気味な景色がいつまでも続きました。しばらく進むと煉瓦を作る作業場に着き、そこで食事を取りました。その作業場には200人程の囚人が働いていましたが、知り合いの僧侶が何人かいました。経典の先生だったタシ・ゲンツェン師も作業をしていましたが、お互いちらっと目を合わせただけで、話すことはできませんでした。
さらに半日程奥に進み、スムゾン寺に着くと、私たちはお堂の中に入れられました。すべての仏像や仏画は略奪されてしまった後で、空っぽのお堂の床に私たちは寝ました。翌日からは早速働かなければなりませんでした。私たちの仕事は兵舎を作るために切り出した材木を建設現場まで運ぶことでした。伐採地から建設現場までは優に2キロはあり、途中危なげな吊り橋を渡らねばなりませんでした。2人で長い材木を担ぎ、肩に食い込む重みに耐えながら、1日に5往復もせねばならず、夜はくたくたになって冷たいお堂の床に体を横たえました。水を谷まで汲みにいくのも囚人の仕事でした。兵舎ができあがり、兵士の数が増えるとそれだけ私たちの仕事も増えました。台所の水や生活用水はもちろんのこと、兵士や高官たちが体を洗う水まで、遠い谷の下まで汲みに行かなければなりませんでした。辺りは陽を遮るほどの大木が茂る森林地帯で、熊、レパード、ヒョウがいると言われていました。チベットではこのコンポ地方のことを魑魅魍魎が跋扈する不気味な森だと思って恐れていました。ここに送られるというのは人里から遠く離れた辺鄙な山奥に打ち捨てられたも同然でした。夜更けになるとどこからか獣の吠える声が聞こえて来て、皆を震え上がらせました。
毎夜のように共産思想の学習会が開かれ、毛沢東や党がいかに偉大であるか、勤労の大切さ、いかに労働が尊いことであるか等を夜遅くまで聞かされました。居眠りでもしようならば、次の日のタムジンでの格好の的になるので、みんな身動きひとつせずに冷たい床に座っていました。
兵舎を造るための木材を運び終えると、次は森林地帯の開墾をせねばなりませんでした。木を伐採し、根本を掘り出し、土地をならすのです。木を切るのは初めての経験で本当に骨が折れました。ある程度までノコギリを引き、後はロープを巻き付けて5、6人で引っ張って木を切り倒しました。両手は豆がつぶれ、腰を痛めながらも一日の決められた本数をこなすために、みんな必死で働いていました。乏しい食事と重労働のため、半分気を失ったような状態でただ黙々と作業をしていました。逃げ遅れて、倒れてくる木の下敷きになったものも少なくはありません。若い者たちは木を切り倒し、根元を掘り上げ、老人たちはその後を鍬で耕してならし、1年も経つとあたり一帯の木が全て伐採され、広い畑が出来ていました。監視に追い立てられながらただ体を動かし続けた日々でした。皆痩せこけ、目が窪み、まるで餓鬼のような様相で作業をしていました。人間らしい思考力は皆無になり、激痛が走ったときだけふと我に返りました。長い労働から解放され、道具を片付けて帰路に着くと体中の節々に鋭い痛みを覚えました。私たちに与えられる食事は、やはり一杯のお茶と一握りのツァンパだけしかなく、到底空腹と疲れを癒すのに足りる量ではありませんでした。
作業期間中は近くにテントを張って寝ていましたが、ある寒い夜、デプン寺の高僧がテントの脇に置いてあったトイレ用のバケツを持って、辺りを憚ったのか、少し先の茂みの方へと用を足しに行こうとしていました。看守がそれを見咎めると、警棒で高僧を叩きのめしたのです。そして服をはぎ取ると寒空の下に立っているよう命令したのでした。2月の凍えるような夜のことでした。悲鳴に目が覚めたツェダン寺の僧院長ジャンパ・テンジンは、毛布をそっと彼の方に投げましたが、看守にみつかってしまいました。ジャンパ・テンジン師も殴られた上、服をはぎ取られ、裸で朝まで外に立っていなければなりませんでした。そして翌朝、タムジンが開かれて、二人が糾弾対象となりました。私は二人の高僧が糾弾されるのを胸が張り裂けるような思いで見ていました。
1年が過ぎ、春が来ると私たちは再び移動させられることになりました。拷問やタムジン、餓死のため、250人程いた囚人は半数近くに減っていました。行き先を告げられないまま、私たちはトラックに乗せられたため、さらに奥地へと行くのではないかと不安で一杯でした。車がUターンし、道を下り始めたのを知ると安堵感で胸を撫でおろしました。ここ以上にひどい所には行かないとわかったからです。半日程走ると周囲を竹の柵に囲まれた土地にたくさんのテントが立っているのが見えてきました。コンポ地方ネェティという場所でした。そこで1983年に釈放されるまでの17年間を過ごしたのです。
そこには七百人ほどの囚人がいました。囚人は六つのグループに年齢や健康状態によって分けられており、それぞれ建設現場での仕事、畑仕事、水路工事、木の伐採などの仕事が割り当てられていました。私は最初に建設作業、そして木の伐採のグループに入れられ、1975年からは台所で調理の仕事をしました。どのテントにも溢れるほどの囚人がいましたが、それも徐々に減っていきました。釈放されていったわけではありません。死んでいったのです。私の隣に寝ていたセラ寺の僧侶も亡くなりました。息を引き取る前に彼は私にこう言いました。
「今世ではもうダライ・ラマ法王にお会いすることはもう叶わないだろう。せめて来世で再び逢えるようにどうか一緒に祈ってはくれないか」
私は彼の手を握ったまま、何度も何度もうなずきました。胸がきつく締めつけられ、泣き叫びたいほどの思いで胸は一杯でしたが、監視にみつからないように小さな声で静かに彼の耳元に短い祈祷を唱えました。翌朝、彼は冷たくなっていました。ここでは実に300人近くの人が亡くなりました。
◆毛沢東語録
一日はいつも朝の集会で始まりました。テントから出て点呼を掛け合い、朝食をとると広場に集合して所長の話を聞かねばなりません。そして毛沢東語録や毛沢東賛歌「東方紅」を大きな声で唱え終わると、一列になり兵士に連れられて作業場へと向かいました。仕事へ取り掛かる前にも毛沢東語録、食事の前にも毛沢東語録、何かする前にはおきまりのように唱えなければなりませんでした。
「毛沢東首席に従わないものは我々の敵である」
そう嫌になるほど言われ続けていました。建設現場では石を砕いては、ロバのように背中に石を乗せて運び、畑仕事では地の上を這いずり回り、そうして夜は共産主義の勉強会が行われました。日中の作業でくたくたに疲れている上に、様々な質問に答えたり、たくさんのスローガンを暗唱してみせたりしなければならず、大変苦痛な長く感じられる時間でした。スローガンはチベット語に訳されたものもありましたが、大抵は中国語でした。
「我々の秘められた力を信じよう。民衆こそが国の担い手」
「我々労働者の導き手、偉大なる舵取り、輝ける指導者毛沢東首席」
「人民の力を見よ。真なる力は人民にある」
「過ちを犯した者を打ちのめせ。党に従わない者を打ちのめせ」
上手く暗唱できないものは、必ず次のタムジンで糾弾されるのでした。タムジンは週に一度の頻度で行われ、作業中の態度の良くないもの、不満を漏らしたもの、党に逆らったと見なされた者たちが対象となるのでした。
ある夜、クンデリン寺の僧侶ウーセル・ダクパは台所の隅にある小さな水路を伝わって脱出し、私たちに希望を与えましたが、一週間後には見つけ出されて捕まってしまいました。すぐに例のごとくタムジンが開かれ、拷問により痣だらけになったウーセル・ダクパが皆の前に引きずりだされました。すぐには彼だとわからない程、顔は腫れ上がっていました。ウーセル・ダクパは60近い年寄りで、どうしても死ぬ前にダライ・ラマ法王に逢いたくてインドまで行くつもりだったのです。
「どうしてインドに行こうとしていたのか」
所長はウーセル・ダクパに強い口調で詰問しました。
「ここには食料もなければ、信仰の自由もない。あるのは過酷な労働だけだ。インドに辿り着きさえすれば、ダライ・ラマ法王にお逢いすることができる。お逢いしてこの悲惨な状況、皆が味わっている地獄の苦しみを申し上げようと思ったのだ。そうすれば必ずダライ・ラマ法王は助けてくれる」
ウーセル・ダクパは決して怯むことなく堂々とした口調で答えました。
「ダライ・ラマ法王がお前のような者に逢うわけがないではないか。特権階級の者がお前のような薄汚い労働者に逢って話を聞くとでも思っているのか」
「必ず逢って下さるとも。私のような苦しみを味わった者には必ず逢って下さる。法王はそういう御人だ。私たちはこの世の誰よりも苦しみを味わっているのだ」
中国人たちはウーセル・ダクパを袋だたきにし、起き上がれなくなったのを確認すると、体を引きずり近くの木に紐で結び付けました。3日間そうやって晒し者にされ、暇を持て余す看守たちに散々なぶられた挙句、刑期が延ばされました。
あれほどの豊かだった森林地帯はいつの間にか消えてしまい、見晴らしの良い広大な農地になってしまっていました。伐採した木はトラックに満載されて連日のように中国に運ばれて行きました。その数が一日30台を下ることは稀でした
◆ダライ・ラマ法王の兄との再会
毛沢東が死去し、ケ小平が政権に就いた1978年から徐々に生活に変化が見られるようになりました。その年、私と弟ツォニは18年の刑期を終えて釈放されました。けれども自由にどこでも行けたわけではありませんでした。弟は4年、私は6年のシャモの期間があったからです。部屋に鍵が付いていないだけで、囚人の頃とほとんど変わりませんでした。同じように集会には参加せねばならず、労働もしなければなりませんでした。常に監視の下に置かれ、自由に移動することなどは問題外でした。私に与えられた仕事は70頭の豚の飼育でした。豚小屋の脇の小さな部屋が私の部屋でした。毎朝、豚を外に出して小屋を掃除し、ツァンパを炒ったときに出来る籾殻に残飯を混ぜて餌を与えました。1月にわずか24元(約260円)の給料を手にすることができましたが、食費を払い石鹸等の日用品を買うと手元には5元も残りませんでした。弟のニマ・ダクパは8年の刑期だったので1968年に釈放されていました。一年間のシャモを経た後ラサへと戻って行きました。
1979年9月、ダライ・ラマ法王の兄ロプサン・サムテン率いる視察団がコンポ地方に来ることを集会で知らされました。私は踊りださんばかりに喜びました。中国とダライ・ラマ法王との対話が進んでいる証拠でした。何の音沙汰もなかった亡命の地インドからの20年ぶりの知らせでした。ロプサン.サムテンとダライ・ラマ法王と一緒にポタラ宮殿で遊んだことが昨日のことのように思い出されました。あの頃と今の暮らしの違いは何と大きいことだろう。さぞかし、ロプサン・サムテンはチベットを20年ぶりに見て驚くに違いありません。一目でいいからロプサン・サムテンに逢いたいと思いました。勝手に移動したことが判明したら、厳しい処分が下されることはは覚悟していました。それでも逢いたくて仕方ありませんでした。私はパルデン・ラモに祈りました。
「今世ではダライ・ラマ法王にもう逢えないかも知れません。どうか、せめて法王の兄ロプサン・サムテンに会えますように。後の私の身に何が起きても構いません。どうか会わせて下さい」
早速、弟ツォニにどんなことがあってもロプサン・サムテンに逢いにいくと打ち明けました。そして当日どこに看守がいるかを調べて教えてくれるように頼みました。弟は喜んで承知してくれました。けれども、せっかく20年ぶりにロプサン・サムテンに逢えるかも知れないというのに、私には今着ているボロ服以外何も持っておらず、差し上げられるようなものは何一つ手元にありませんでした。近くにリンゴの木がありましたが、中国人たちがいつも全部食べてしまって、私たちが口にするのは稀でした。私は秘かに毎日一個づつもぎ取っては、ロプサン・サムテンに差し上げるために大事に取っておきました。当日、弟の助けを借りて刑務所を脱け出し、まだ真っ暗な中を麓の町の方へと降りて行きました。
町はまだ暗いうちから、ロプサン・サムテン率いる視察団の到着を待つ人が道の両側にぎっしりと並んでいました。村人の話から視察団が昼食を取る予定になっている役所を知るとそこへ向かいました。中国人たちは
「ダライの兄が来たからと言って決して石などを投げないように」
と言っていました。中国人たちはこの20年に渡る共産党教育が成果を収め、私たちが洗脳されたとでも思っているようでした。共産党員の彼らにチベット人の信仰心が金剛石のように固いということを知る由はありませんでした。
私は役所の建物へと密かに忍び込むと、トイレの中に隠れて待っていました。昔の楽しかった思い出の一つ一つが克明によみがえって来ました。ロプサン・サムテンは全く屈託のない、よく笑う子供でした。ときどき、私が怖い先生の真似をしてみせて笑わせたものです。3人で追い掛けっこをしたこと、小石を弾く遊びをしたこと、そんなことを思い出しながら、ここ20年もの長い間全く味わうことがなかった心が暖まるような感覚に包まれていました。
正午近くになると車が入ってくる音が聞こえ、人々の喧騒の声が次第に近づいてくるのが分かりました。無謀なこととはよくわかっていました。殺されるかもしれないと覚悟もしていました。私はトイレから出るとこちらへ歩いて来るロプサン・サムテン目がけて走り込みました。彼は僧服を着ていず、髭をたくわえていましたがすぐに分かりました。幼い頃の面影がそのまま残っていました。私は側まで行くと跪き
「ナムギャル寺のジャンパ・プンツォクです」
と申し上げました。ロプサン・サムテンはすぐに嬉しそうな声を上げました。
「私が不徳なばかりにダライ・ラマ法王にお会いすることが出来ずにいますが、皆さん元気でいらっしゃいますか」
まわりの中国人が私を追い払おうとしましたが、ロプサン・サムテンはそれを止めて
「私たちは兄弟のようにして育ったのだ」
と言いました。私がリンゴを差し上げるとロプサン・サムテンは辛そうな顔をしていました。私の服を見てどんな生活をしているのかがわかったのでしょう。ロプサン・サムテンは袂からお金を引っぱりだしました。
「何かに使ってください」
と言いながら渡そうとしましたが、私はそれを丁重にお断りしました。私たちにそれ以上語りあう時間は全くありませんでした。ロプサン・サムテンは
「ぜひ手紙を下さい」
とだけ言うと周りの者にせかされてホールの方へと去っていきました。
ロプサン・サムテンと話すことが出来たのはほんの一瞬だけだったけれども、私は十分に満足していました。同時に中国が侵略してくる前の古き良きチベットへの押さえがたい郷愁が、胸に溢れてくるのをどうしようも出来ずにいました。私は刑務所への道をとぼとぼと歩きながら、いろんなことを思い出していました。母のこと、放牧地でヤクたちと過ごした子供時代のこと、ポタラ宮殿、ラサでの祭りの数々、楽しかったことばかりが心に去来しました。今はダライ・ラマ法王もいなければ、母も、ヤクも無く、中国共産党が来てからというもの何もかもが幻となって彼方へと消えていってしまいました。私は重苦しい気持ちで豚小屋の隣の小さな私の部屋へと帰り着きました。
次の日の朝、所長に呼ばれて散々怒鳴りつけられた後、タムジンで糾弾されました。
「今までの学習の効果が全くないようだな。再教育の必要がまだまだある。どうも悪しき封建主義の思想から脱けきれないようだ」
その年の終わりにシャモに服していた囚人たちが釈放されましたが、私だけは刑務所にそのまま残らなければなりませんでした。
◆再び、故郷のペンポへ
1983年5月、全ての囚人が釈放になりました。多くは1959年からいるものばかりで、すでに20年以上の歳月が過ぎていました。その多くは年を取り、釈放だと言われても行くところがありませんでした。両親は死んでしまい、財産も奪われてしまい、残された者たちは耐え難い貧困の中にいるに違いありません。私が帰ったところで食いぶちに困るだけです。所長や看守たちは
「私たちの仕事は終わった。この20年間で十分過ぎるほど発展を助けたからな。チベット解放の任務は成し遂げた」
と言って去って行きました。彼らは帰るときにトラック一台分の良質の木材を持ち帰ることを忘れませんでした。
私はコンポ地方のある村に行って雑用係や使用人の仕事をして暮らしていましたが、1984年の暮れにラサに住む病気の叔母から看病をして欲しいとの連絡が入りました。そして実に久しぶりにラサに戻ったのです。ラサは何もかもが変わっていました。人々は人民服を着て、スピーカーから耳を割らんばかりの音量で流される党のスローガンの中を行き来していました。寺の復興は始まったばかりで、どの寺も共産党員たちが狼藉の限りを尽くした跡を痛々しく留めていました。
叔母が看病の甲斐無く2カ月後に亡くなると、私は故郷ペンポを訪れました。ここがあのペンポなのかと目を疑うほど全く様子が変わっていました。森が跡形も無く消えてしまっていました。あんなにたくさんいた鳥たちもほとんどいなくなってしまっていました。家には10年の懲役刑と10年のシャモを生き抜いた姉がいました。大きくなった子供たちが土地を借りて小作をすることでなんとか生活をしていました。家は目を覆いたくなるようなありさまでした。馬小屋のようなちいさな粗末な小屋で生き残った家族がほそぼそと暮らしていたのです。共産党はチベットに富と発展をもたらしたと集会では嫌となるほど聞かされました。共産党は私に何をもたらしたでしょうか。父も母も亡くなりました。財産も没収されました。2人の弟は餓死しました。残った弟たちもラサの食堂で働いたり、掃除夫などをしたりしてなんとか生計を立てていました。私には富や発展は何一つありませんでした。
◆ラサへ
生き残った僧侶たちがラサに戻り始め、ケ小平の「開放政策」の下で寺の再建が始まりました。1959年に僧侶だったもので、インドに亡命した者以外に、あの時代刑務所での労働キャンプでの苦しみを味わずに済んだものが一体どれ程いるのでしょうか。ラサに戻って来た僧侶たちは、寺の復興に力を入れ、信仰の日々を取り戻すために努力を惜しみませんでした。弟もデプン寺に戻りました。私はセラ寺の裏山の中腹にあるタシチョリン寺に入りました。チベットに少しずつ失われていた信仰が戻って来ました。宗教の自由は完全とは言えませんでしたが、それでも誰にも憚らずにお経を唱えることが出来るということが私は嬉しくてたまりませんでした。どんな目にあっても、どんなに共産党教育を受けても仏への信仰を疑ったことは一度もありませんでした。それどころかますます堅固になって行きました。信仰はあの長い監獄生活を耐えさせてくれました。苦しみや痛みを味わう度に、地獄で苦しみを味わう者たちのことを思いました。この世で同じような目にあっている者たちのことを思いました。生きとし生けるもの、全ての命あるものの苦しみが無くなりますように。そう願うことであの年月を耐えることができたのですから。
1987年9月と10月にデプン寺、セラ寺の若い僧侶たちが続けて独立要求のデモを敢行しました。若い世代もチベットのことを忘れてはいないのだ。そう思うと嬉しくて仕方ありませんでした。もちろん彼らは全員逮捕されましたが、その勇気ある行動を讚えずにはいられませんでした。若い人たちもチベットに対する愛国心を失ったわけではない。中国のいかなる画策を持ってもチベット人から独立の思いを完全に奪い去れなかったのです。1988年の大祈祷法会にはデプン寺、セラ寺とともにラサ三大寺に入るガンデン寺の若い僧侶たちが立ち上がるのは間違いないと思いました。だが彼らが先頭に立つとなると重い刑を受けてしまう。私はもう歳だ。刑務所の中で一生を終えようが構わない。彼らの代わりに私がその役を引き受けよう。若い僧侶たちが、長い沈黙を押し破って自由を求める声をあげたのだ。私も声を上げなければならない。
次の日、ラサの町にいき、知り合いの家に行きました。大祈祷法会にデモをする計画を打ち明けると、彼は驚いて、私を止めようとしました。
「そんなことをしたら、また刑務所行きだ。下手をすれば殺される。どんな拷問を受けるかぐらいわかっているだろう。お願いだから、そんなことはしないでくれ」
私は彼の繰り返しの頼みに耳を貸しませんでした。
「もしかしたら、ここにも公安がやってくるかもしれない。そしたら、私とは何の関係もないと言って欲しい。そうでなければ、巻き込まれるかもしれないから」
私は彼の身だけが心配でした。それだけ言うと、私は足早にタシチョリン寺に戻りました。
大祈祷法会が始まるまでの間、タシチョリン寺の自室の中で、静かに祈祷を続けていました。どうか、私に勇気を下さいますように。デモが成功しますように。堅固な決意と勇気を与えるという密教の行と瞑想も約2カ月に渡って行いました。準備は全て整いました。チベット歴の正月にラサの総本山ジョカン寺にて10日間に渡って開催される大祈祷法会大祈祷法会の日を待つばかりです。
◆デモ、再び刑務所へ
ラサの総本山(ツクラカン)で大祈祷法会が始まりました。タシチョリン寺から降りて、ラサに入るとあふれんばかりの僧侶や市民でジョカン寺のまわりは一杯でした。私は機会を狙っていました。チベットの自由を求める声を上げる機会を。ガンデン寺の僧侶たちが声を上げるならば、この時をおいてほかにはないはずなのに何日経っても何も起きませんでした。やはり私が先頭を切って声をあげるしかないと決意しました。
3月3日のことです。私は読経の最中に立ち上がり、叫びました。
広場は一瞬水を打ったように静まり、みなが一斉に私の方を見ましたが、後に続いて叫ぶ者は誰もいませんでした。たくさんの中国人兵士が警備をしていましたが、彼らも私を捕まえようとはしませんでした。余生がいくばくも残っていない私にとって再び刑務所に入ることはさほど重大なことではありませんでした。その場で銃弾に倒れても構わないと決心していました。でも、何も起きませんでした。中国人も私を捕まえようとはしませんでした。誰も私の後の続かなかったけれど、私は充足感に満たされていました。ダライ・ラマ法王は人にはそれぞれ果たさねばならぬことがあると言っています。少なくとも私は私の責任を果たした。その満足感で私は本当に胸が一杯でした。
その日の夜、夢を見ました。ポタラ宮の階段のところで法王が微笑みながら手招きをしています。私は法王に誘われるまま、屋上へとあがりました。そして法王はにっこり笑うと、大きな白い美しいシルクの布(カタ)を広げました。そして、私の手を取ってくれたのでした。目が覚めてからも、幸せな思いに包まれていました。今まで犯した罪の数々、法王を批判せねばならなかったこと、仏や三宝を侮辱せねばならなかったことなど、ずっと私の胸に重くのしかかっていた罪の数々が清められ、許されたような気がしました。
次の日から大祈祷法会には行きませんでした。寺の自室にこもって読経したり、境内を掃除したりして何日かを過ごしました。ところが大祈祷法会の最終日の5日にガンデン寺の僧侶たちが独立要求の声を上げたのです。デモは市民までを巻き込み、大規模なものになったと知ると私は嬉しくてなんだか酬われたような気がしました。中国の制裁はすさまじく、逮捕者が続出し、死者までもがでました。
2日後に寺に警察がやってきました。彼らが瞑想場になっているこの寺まで、のぼってくるのがよくみえました。私は逃げようとは思いませんでした。それまで、いますぐ逃げたほうがいいと言ってくれる人もいましたが、その度に私が捕まらなければ、他の人に迷惑がかかるといってどこにもいきませんでした。覚悟は決まっていました。警察はようやく寺まで崖を上ってくると、私が立ち上がってスローガンを叫んでいる写真をみせ、
「これが誰か知っているか。」
と聞きました。
「私です」
躊躇なく答えると彼らは面食らったようでしたが、私を縛り上げると連行しました。部屋の中を捜索しようとしましたが、あいにく私の洞窟のような部屋には、寝所とナベしかありませんでした。
3年の懲役を受け、ラサのシトゥ刑務所に2年、ダプチ刑務所で4カ月、サンイップ刑務所で8カ月を過ごしました。釈放後、ダラムサラに亡命しました。1991年10月のことです。私のような年寄りがダラムサラに行ったとて、亡命政府に迷惑を掛けるばかりで何の役にも立たないと亡命するつもりはなかったのですが、みんなが勧めるのと、やはりどうしてもダライ・ラマ法王に死ぬ前にお逢いしたくてヒマラヤを越えて来ました。ダライ・ラマ法王との再会の日のことを私は死ぬまで忘れないでしょう。謁見は4時間にも及び、幼少の頃に一緒に遊んだことから、1988年のデモのことまで、子細に渡って法王と話すことができました。法王は前のようにナムギャル寺で生活できるように工面して下さり、今こうしてカラチャクラ堂の管理人の仕事をしています。私のような年寄りでも多少でも役にたつことができて、こんなに嬉しいことはありません。今は法王のご健康とチベットが再び自由になる日がくることを祈るばかりです。
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