チベット証言集

The case of Jigme Gyantso

 

ソナム・ドルカ (32才)】【尼僧ガワン・ワンドゥン (22才)】【ジャンパ・プンツォク(71才)】【僧侶バグド (31才)
尼僧ナムドル・テンジン(29才)ダムチュ (34才)】【ロプサン・タシ (30才)
ジグメ・ギャンツォ (30才)】【ガワン・ジャムチェン (31才)


*この証言はダラムサラに亡命しているチベット難民にインタビューし、日本語に訳したものです。




■ジグメ・ギャンツォの証言


 私は1970年にラサで生まれました。独立要求のデモに行ったのは1987年10月1日のことでしたから、ちょうど17才のときのことになります。

 私たちがデモを行う日の4日前の9月27日にデプン寺の僧侶たちが独立要求のデモを行い、捕まったことはその日のうちに私たちの耳にも入ってきました。20人ものデプン寺の僧侶たちが、禁じられたチベット国旗を掲げ、果敢にも『チベットに自由を』と唱えながらバルコル(ジョカン寺を回る右繞道)を行進したのでした。その事件は大きな衝撃を私に与えました。それは、まるで体中が奥から揺さぶられるような衝撃だったのです。他の僧侶も同じように感じたようでした。その晩は皆興奮して遅くまで語り合っていました。

 私は誰から聞いたわけでもなく、かつてチベットは独立国であったことを知っていました。それは自明のことでした。言葉が違う、服装が違う、そもそも習慣がちがう。チベット人と中国人はどこをとっても全く相いれない異る存在でした。チベット人と中国人を見間違うことなど決してなかったからです。


 その日、デプン寺の僧侶たちがデモを行った日から、わずか4日後の1987年10月1日、私たちは8時にセラ寺を出て、バルコルへと出掛けました。デモを決意するのにそれほど長い時間は掛かりませんでした。デプン寺の僧侶たちがどんな目にあっているかと思うといても立ってもいられない気持ちでした。

 私は当時、セラ寺でトラックの運転手をしていました。セラ寺からラサまでは車で25分程掛かります。その日、27人の僧侶が、私の運転するトラックに乗って、ラサへ向かいました。私は僧侶たちをバルコルの入口あたりで降ろすと、車を駐車するためにバルコルを過ぎて、大通りに出て、西側の方へ車をまわしました。計画では、僧侶たちはジョカン寺の前から声をあげはじめ、バルコルを一周し、ツクラカン寺のちょうど左手にある警察署へ行くつもりでした。警察署には四日前にデモを行ったデプン寺の僧侶たち21人が捉えられていました。彼らの釈放を警察署の前で要求するつもりだったのです。


 私が車を駐車し、バルコルに戻ってきたときには、すでにセラ寺の僧侶たちは捕まっていました。警察署の前にはたくさんの市民たちが集まり、僧侶たちの釈放を叫んでいました。やがて、警官たちは市民たちに発砲しはじめました。カルセルというネチュン寺の僧侶が撃たれて、即死したようでした。他にも何人かが撃たれたようでした。まもなく、ツクラカン寺の僧侶たちが警察署に火をつけ、捕われている僧侶たちを救い出さんと、中に飛び込みました。辺りは騒然としていました。怒った市民たちも警官に向かって石を投げていました。私も夕方近くまで、警察署の前にいました。警察署からは大きな火の手があがり、あっという間にまわって、ほとんどが焼け落ちてしまいました。捕まっていた何人かの僧侶は刑務所から逃げることができたようでした。


 デモを行ったセラ寺の僧侶ギャギャルが撃たれて、危篤であるという情報が夕方入ってきました。入院していた病院を探し当てたのは、夜中のことでした。頭部を二発も撃たれたらしく、全く喋れない状態でした。意識は戻らないまま、明け方の5時に亡くなりました。


 私が逮捕されたのは、10月4日の深夜2時頃のことでした。警察がやってきて、『聞きたいことがあるので同行願いたい』と言われました。ずいぶん慇懃な言い方でしたが、そこには有無を言わせない威圧感のようなものがありました。私はそのままバルコルの派出所に連行されたのでした。


 悪夢のように長く続いた拷問の第一日目がそうして始まりました。掛けられた手錠は動かすたびに内側へと食い込んでくるタイプのものでした。『10月1日は何をしていたんだ』『警官へ石を投げただろう』彼らはそんなことから尋問をはじめました。私はいずれの質問にも知らないと答えました。やがて彼らは家畜に使う電気棒を、身体のありとあらゆるところへつけました。顔へ、胸や首へと。その度に強い衝撃を受け、身体が倒れ込み、そして気を失いました。やがて身体のすべての感覚が麻痺してきました。まるで皮膚が焼けていくような熱さと痛みだけがありました。


 警官は蹴り、殴り、そして銃床でなぐりました。胃のあたりを何度か強く殴られてその度に意識を失いました。そのうち、彼らはメタルのついたグローブをはめて殴りはじめました。額が割れ、おびただしい血が噴き出しました。止めようもなく、ただただ血が流れ、そのうち、目が見えなくなり、目の前でなにが起きているのかわからなくなりました。だた音とそして鋭い差し込むような痛みが全身に絶え間なく感じられるのでした。
 あなた方はきっと不思議に思うでしょう。人間が同じ人間に対して、どうしてそこまで惨いことができるのだろうかと。けれども、それは全て実際に起ったことなのです。全身に今でも残る傷跡が、人がいかに残酷になれるのかという証拠なのです。


 朝方5時にようやく尋問は終りました。額からは血がとまらず流れ出ていました。8時頃になってようやく医者がきて、額を縫い合わせました。医者は痛み止めを与えてはいけないと指示されていました。彼らの考えはこうでした。中国政府に逆らえるくらいならば、痛みなんか耐えられる筈だと。


 治療が終るとまもなく、外へと連れていかれ、大きな石を背中に針がねでくくりつけられました。そして腰を折ったままの状態でそのまま周りを歩かせられました。そして棍棒で殴り付けられ、電気棒でショックを受けました。やげて石の重みで一歩もあるくことができず、地面に倒れ込んでしまいました。彼らは私を引きずって独房に戻しました。その夜、私は壁に繋がれたまま一夜をすごしました。痛みはひどく、一睡もできないまま夜が明けました。
 

 そのような日が5日も続きました。その間、食事はたった一度も与えられませんでした。ただ水をもらっただけでした。

 そして5日後、グツァ拘置所に移されました。グツァ拘置所に移ってすぐの尋問はそれほど厳しくはありませんでした。すでに私の身体は傷だらけだったからです。それでも彼らは私を殴り、電気棒を用い、そして尋問をしたのでした。
 グツァ拘留所に移されてから4日目、独房に入れられました。連日続いた尋問と拷問で意識はぼんやりしていました。その独房に何日くらいいたのか正確には思い出せませんが、二ヶ月くらい入れられていたのではないでしょうか。狭い部屋で身体を横たえられるスペースがあるだけで、真っ暗なため一日中電灯がつけぱなしになっていました。部屋は汚く、トイレ用のバケツが片隅に置かれていました。日に一度か二度、小さな蒸しパンが二個とわずかな野菜が戸口から投げ込まれました。部屋は死ぬほど寒く、手足には手錠がはめられていました。痛みと寒さで全身に悪い悪寒が走り、身体を動かすことができませんでした。時々、医者が見回りに来て、薬を渡していきましたが、果たしてそれが本当に効果のある薬だったのかどうかはわかりません。


 狭い独房の中で、中国人は自分を殺すつもりなんだと思っていました。身体は弱り、薄れていく意識の中でほとんど正常に考えることができずにいました。ただ、もう二度と家族に、父や母にあうことはできないかもしれない。そのことばかりを思っていました。


 やがて独房から出されると、また尋問と拷問が待っていました。それは15時間も続くものでした。バルコルの派出所からきた警官たちが待ち構えていました。彼らは電気棒で殴り、横に倒れ込むと、身体中を靴で踏み付けてきました。裸にすると電気ショックを与えました。
 最初の尋問から一貫して、私はデモへの関与を拒み続けてきましたが、今度は彼らは写真を用意してきました。それにはデモに参加する私が写っていました。警察は家を家宅捜査をし、独立運動の書類を見つけたようでした。
 彼らは繰り返し殴り、同じような質問をし続けました。
『一体誰がデモに行くように煽動したのか』
『どうしてデモをしたのか』『独立運動の書類をどこで手にいれたのか』


これらの質問に『正しく』答えないかぎり、殴り続けると彼らは言いました。そして、その通り、私はいつまでも殴り続けられたのでした。
 

 グツァ拘置所の政治犯たちは互いに話すことが許されていませんでした。祈ることも固く禁じられていましたが、それでも私たちは蒸しパンを固めて数珠を作りました。
 拷問と貧しい食事のため、しばしば食べたものを吐きだしました。便にはいつも血が混じっていました。拷問は過酷で、しばしば気を失いましたが、その度に彼らは何度も何度も立ち上がらせました。本当に何度も。
 拷問は拘置所での生活の一部をなしていました。それらは日常生活の一部でした。毎日のように誰かが意識を失うまで殴られ、もしそれが自分でないとしたら、別の誰かそういう目にあっていました。

 パンチェン・ラマが中国政府との間に介入してくれてたため、グツァ拘置所のほとんどの政治犯は釈放されることになりました。ただ、私を含めた7人が残るはめになりました。中にはユーロ・ダワ・ツェリンとトプテン・ツェリン(62)もいました。しばらくの間は拘置所内は落ち着いていましたが、まもなく3月5日のガンデン寺の僧侶たちによるデモが起ると、再びグツァ拘置所は慌ただしくなりました。


 裁判が行われたのがいつだったかは全く思い出せません。拷問のため、私の精神状態は極限まで追い詰められていました。裁判は公正なものとは全く程遠いものでした。弁護士もつかないのはもちろんのこと、そもそも中国には法律がないのに等しいですから。
 それでも、一応、私の発言の場が設けられていました。
『私はまだ17才で何も難しい政治や法律のことなことはわかりません。ただ、その手の本を一冊読んだことがあります。その中には17才以下の者に懲役を与えることはできないと書いてありました。またその本には政治囚を拷問してはいけないと書いてありました。けれども私は拷問を受けました。それもひどい拷問を』
そういって、私は身体のあちこちにある傷をみせました。検事たちはそれを否定しました。
『だとしたら、一体誰がこの傷を負わせたのか』
私は検事たちに詰めよりました。すると検事たちは
『彼は刑務所の法規を守らないばかりか、尋問の際に正確な答えをしなかった。そうなれば拷問もやむをえまい』
といい、デモのときの写真をみせました。
『中国政府に逆らうことと、チベット独立要求のパンフを保持することは罪なのだ』
と彼らは明言しました。
 

 数日後、懲役1年という通知が来ました。もし、私があの時、17才であることをもちださなければ、おそらく懲役12年が下ったはずであったと後に知りました。もう、尋問もなく、二日後から他の囚人たちと同じように労働が課せられました。石を砕く仕事でした。身体を何度も強く踏まれたせいで、とくに背中の痛みはひどかったのですが、それでも他の囚人たちと同じノルマが課せられたのでした。石を砕き、運び、積むという仕事を懲役が終るまでさせられました。他の囚人たちと口を聞くのは許されませんでした。悪い毒をまくというのがその理由でした。


 1988年10月に釈放され、家に戻りました。9年間、1998年5月に亡命してくるまでの間、私は運転手として旅行社に務めていましたが、ラサを離れる度に公安局へ出頭しなければならず、私の行動は厳しく制限されていました。デモがある度に自分のみならず、両親が警察署に呼ばれ、尋問を受けました。両親にとってそれは大きな負担となり、心労となっていました。これ以上、両親に気苦労を重ねるのは忍びがたく、チベットを離れることにしました。

 1998年の5月、ラサを離れて、ヒマラヤを16日間掛けて越えました。今では、ルンタハウスに住み、レストランで働いています。ラサとダラムサラのどちらが好きかと聞かれれば、ラサが好きだと答えざるを得ません。ここでは、言葉にも不自由する毎日ですから。でも、帰ることはできません。帰れば、逮捕されてしまうからです。ラサを思わない日はありません。いつか、チベットが自由になって、帰れる日が来ることを願うばかりです。




ソナム・ドルカ (32才)】【尼僧ガワン・ワンドゥン (22才)】【ジャンパ・プンツォク(71才)】【僧侶バグド (31才)
尼僧ナムドル・テンジン(29才)ダムチュ (34才)】【ロプサン・タシ (30才)
ジグメ・ギャンツォ (30才)】【ガワン・ジャムチェン (31才)