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■ジグメ・ギャンツォの証言
私は1970年にラサで生まれました。独立要求のデモに行ったのは1987年10月1日のことでしたから、ちょうど17才のときのことになります。 その日、デプン寺の僧侶たちがデモを行った日から、わずか4日後の1987年10月1日、私たちは8時にセラ寺を出て、バルコルへと出掛けました。デモを決意するのにそれほど長い時間は掛かりませんでした。デプン寺の僧侶たちがどんな目にあっているかと思うといても立ってもいられない気持ちでした。 私が車を駐車し、バルコルに戻ってきたときには、すでにセラ寺の僧侶たちは捕まっていました。警察署の前にはたくさんの市民たちが集まり、僧侶たちの釈放を叫んでいました。やがて、警官たちは市民たちに発砲しはじめました。カルセルというネチュン寺の僧侶が撃たれて、即死したようでした。他にも何人かが撃たれたようでした。まもなく、ツクラカン寺の僧侶たちが警察署に火をつけ、捕われている僧侶たちを救い出さんと、中に飛び込みました。辺りは騒然としていました。怒った市民たちも警官に向かって石を投げていました。私も夕方近くまで、警察署の前にいました。警察署からは大きな火の手があがり、あっという間にまわって、ほとんどが焼け落ちてしまいました。捕まっていた何人かの僧侶は刑務所から逃げることができたようでした。 デモを行ったセラ寺の僧侶ギャギャルが撃たれて、危篤であるという情報が夕方入ってきました。入院していた病院を探し当てたのは、夜中のことでした。頭部を二発も撃たれたらしく、全く喋れない状態でした。意識は戻らないまま、明け方の5時に亡くなりました。 私が逮捕されたのは、10月4日の深夜2時頃のことでした。警察がやってきて、『聞きたいことがあるので同行願いたい』と言われました。ずいぶん慇懃な言い方でしたが、そこには有無を言わせない威圧感のようなものがありました。私はそのままバルコルの派出所に連行されたのでした。 悪夢のように長く続いた拷問の第一日目がそうして始まりました。掛けられた手錠は動かすたびに内側へと食い込んでくるタイプのものでした。『10月1日は何をしていたんだ』『警官へ石を投げただろう』彼らはそんなことから尋問をはじめました。私はいずれの質問にも知らないと答えました。やがて彼らは家畜に使う電気棒を、身体のありとあらゆるところへつけました。顔へ、胸や首へと。その度に強い衝撃を受け、身体が倒れ込み、そして気を失いました。やがて身体のすべての感覚が麻痺してきました。まるで皮膚が焼けていくような熱さと痛みだけがありました。 警官は蹴り、殴り、そして銃床でなぐりました。胃のあたりを何度か強く殴られてその度に意識を失いました。そのうち、彼らはメタルのついたグローブをはめて殴りはじめました。額が割れ、おびただしい血が噴き出しました。止めようもなく、ただただ血が流れ、そのうち、目が見えなくなり、目の前でなにが起きているのかわからなくなりました。だた音とそして鋭い差し込むような痛みが全身に絶え間なく感じられるのでした。 朝方5時にようやく尋問は終りました。額からは血がとまらず流れ出ていました。8時頃になってようやく医者がきて、額を縫い合わせました。医者は痛み止めを与えてはいけないと指示されていました。彼らの考えはこうでした。中国政府に逆らえるくらいならば、痛みなんか耐えられる筈だと。 治療が終るとまもなく、外へと連れていかれ、大きな石を背中に針がねでくくりつけられました。そして腰を折ったままの状態でそのまま周りを歩かせられました。そして棍棒で殴り付けられ、電気棒でショックを受けました。やげて石の重みで一歩もあるくことができず、地面に倒れ込んでしまいました。彼らは私を引きずって独房に戻しました。その夜、私は壁に繋がれたまま一夜をすごしました。痛みはひどく、一睡もできないまま夜が明けました。 そして5日後、グツァ拘置所に移されました。グツァ拘置所に移ってすぐの尋問はそれほど厳しくはありませんでした。すでに私の身体は傷だらけだったからです。それでも彼らは私を殴り、電気棒を用い、そして尋問をしたのでした。 狭い独房の中で、中国人は自分を殺すつもりなんだと思っていました。身体は弱り、薄れていく意識の中でほとんど正常に考えることができずにいました。ただ、もう二度と家族に、父や母にあうことはできないかもしれない。そのことばかりを思っていました。 やがて独房から出されると、また尋問と拷問が待っていました。それは15時間も続くものでした。バルコルの派出所からきた警官たちが待ち構えていました。彼らは電気棒で殴り、横に倒れ込むと、身体中を靴で踏み付けてきました。裸にすると電気ショックを与えました。 パンチェン・ラマが中国政府との間に介入してくれてたため、グツァ拘置所のほとんどの政治犯は釈放されることになりました。ただ、私を含めた7人が残るはめになりました。中にはユーロ・ダワ・ツェリンとトプテン・ツェリン(62)もいました。しばらくの間は拘置所内は落ち着いていましたが、まもなく3月5日のガンデン寺の僧侶たちによるデモが起ると、再びグツァ拘置所は慌ただしくなりました。 裁判が行われたのがいつだったかは全く思い出せません。拷問のため、私の精神状態は極限まで追い詰められていました。裁判は公正なものとは全く程遠いものでした。弁護士もつかないのはもちろんのこと、そもそも中国には法律がないのに等しいですから。 1988年10月に釈放され、家に戻りました。9年間、1998年5月に亡命してくるまでの間、私は運転手として旅行社に務めていましたが、ラサを離れる度に公安局へ出頭しなければならず、私の行動は厳しく制限されていました。デモがある度に自分のみならず、両親が警察署に呼ばれ、尋問を受けました。両親にとってそれは大きな負担となり、心労となっていました。これ以上、両親に気苦労を重ねるのは忍びがたく、チベットを離れることにしました。 1998年の5月、ラサを離れて、ヒマラヤを16日間掛けて越えました。今では、ルンタハウスに住み、レストランで働いています。ラサとダラムサラのどちらが好きかと聞かれれば、ラサが好きだと答えざるを得ません。ここでは、言葉にも不自由する毎日ですから。でも、帰ることはできません。帰れば、逮捕されてしまうからです。ラサを思わない日はありません。いつか、チベットが自由になって、帰れる日が来ることを願うばかりです。 |