チベット証言集

The case of Lobsang Tashi

 

ソナム・ドルカ (32才)】【尼僧ガワン・ワンドゥン (22才)】【ジャンパ・プンツォク(71才)】【僧侶バグド (31才)
尼僧ナムドル・テンジン(29才)ダムチュ (34才)】【ロプサン・タシ (30才)
ジグメ・ギャンツォ (30才)】【ガワン・ジャムチェン (31才)


*この証言はダラムサラに亡命しているチベット難民にインタビューし、日本語に訳したものです。




ロプサン・タシの証言

 

私は1970年、チベットの首都ラサから3時間程離れた小さな村で生まれました。学校には行ったことがありません。村には5年だけ初等教育が受けられる小学校がありましたが、家に経済的余裕がなかったので、農作業を手伝って少年時代を過ごしました。15才のときに再建されたばかりのデプン寺にて出家しました。1987年に捕まるまでの3年間を僧侶として仏の説く教えを学びながら修業に費やせたことは、自分の人生にとって大変重要な意味を持ちます。振り返ってみると、本当に貴重な時間でした。

 

両親は農家を営んでいましたが、中国共産党によって「富農」という階級に分類されたため、全ての財産、家畜を没収され、一家は村外れの今にも崩れ落ちそうな小さな小屋で暮らしていました。食べる物にも事欠くありさまだったので、幼いころはいつもお腹を空かせていたように記憶しています。中国当局が村人たちにあまり両親とつきあわないようにと命令していたため、家を訪れる客人はほとんどいませんでした。両親は村で行われる批判集会(タムジン)によく呼び出されていたので、夜はほとんど家にいませんでした。身体はそのとき殴られた傷や痣でいっぱいでした。どんなにタムジンに呼び出され、共産主義や革命闘争を支持するように命令されても、『改心』するようなチベット人は誰一人いなかったのではないかと思います。

 

     両親の思い出

 

父は敬虔な仏教徒で、常に仏への帰依や他者への慈愛、慈悲を忘れない優しい人でした。父は私が刑務所から釈放されるわずか数日前に亡くなりました。今でも父のことを思い出すたびに胸が詰まります。もちろんこの世は無常で、常に移り変わりいくものであると仏は説いています。そう納得はしても、心の底にぽっかりと穴が空いてしまったような感じがして、寂しくて仕方ありません。あと数日、父が生きていてくれさえしたら、再び会うことができたのにと悔やんでも悔やみきれない思いがします。

 

父は学校で教育など受けたことのない人でした。科学や数学も習ったことはありませんでした。難しいことは何一つ知りません。朴訥な人でした。人間は正直で周りの人と仲良くしなければいけないという信念だけを持っていました。人はまっすぐでなければならないと口癖のように言っていました。

 

母のことはあまり覚えていません。父が語ってくれた母のイメージだけがおぼろげに私の中に残っています。というのも、私がまだ幼いときに亡くなっているからです。母も何度もタムジンに呼び出され、村の道という道を白い山高帽をかぶって罵声を浴びさせながら行進させられました。殴られ、小突かれ、後ろ手に縛れたまま砂利石の上に跪かされ、ありとあらゆる屈辱を受けました。父ははっきりと言わなかったけれど、母はこうして死んでいったのだと思っています。村の老人たちからタムジンがどんなふうに行われていたか聞いたことがありますから。

 

 

父はチベットがどうしてこのような状況になったのかについて具体的には教えてくれませんでした。政治的な話をするとき、父が言い様のない恐怖感におそわれているのがこちらにも伝わってきました。体がこわばり緊張するのです。人々はとてつもない威圧感、恐怖感の下で暮らしていました。注意深く言葉を選び大人たちが喋っているのが子供心にもわかりました。中国が支配を始めた1959年以前がどんな生活だったのか、父は詳しく話してくれはしませんでしたが、それが今よりずっと楽な暮らしであったことは言葉の端々から子供にも容易に理解できました。

 

◆出家

 

15才になった年、私は再建したばかりのデプン寺で出家しました。信仰心の厚い父の下で育ったからでしょうか。自然と僧侶になりたいという思いが沸いてきたのです。僧衣を一式あつらえてもらい、とても嬉しかったことを覚えています。16才になると同時に、私は経典の内容に興味を覚えると同時に徐々に祖国チベットのことについても考えるようになりました。誰が教えてくれたわけではないのですが、チベットはかつて独立国であったと確信していました。書物の紐を解くまでもなく、中国人とチベット人をみていればそれは自ら理解できたのです。私たちとは全く違う言葉を喋り、習慣や服装まで全く違う。中国とチベットが一つの国であるという主張はどうしても受け入れがたいものだったのです。

 

1987年、17才になるとよく仲のよい僧侶たちと政治の話しをするようになりました。時々話はチベットの歴史に及ぶようになりました。私の部屋はいつも誰かしらがいて、話に興じていました。よく先生にもおこられたものです。もちろん、くだらない話もしましたが、話はよく政治的なものになるのでした。チベットの独立についても論じあったりすることもあったのですが、それが行為に直接結びついたりするわけではありませんでした。

 

その頃よくダライ・ラマ法王のテープを聞いたり、政治の本を読んだりしました。ダライ・ラマ法王のテープはインドから戻ってきたチベット人からもらったり、外国人からもらったりしました。チベット語を話す外国人は少なかったため、私たちは寺を訪れた外国人を見ると法王の写真やテープを持っているかと片言の英語で聞いていました。

 

     はじめての独立要求デモ

 

その年の9月27日、私たちは1959年3月の民族蜂起以来、初めてといえる独立要求のデモをチベットの首都ラサで決行しました。もちろん、デモをすればどんな目にあうかは十分承知の上でした。でもそれ以外に選択の余地はありませんでした。これ以上、チベットの現状について黙っていることはできなかったのです。中国はチベットに信仰の自由があると宣伝しておきながら、僧侶の数を厳しく制限していました。大量の中国人移民がチベットに入ってきており、主要な役職をほとんど握っていました。中国人が経営する食堂、商店が増え始めるに連れ、買い物をするにも中国語が必要となり、チベット人は差別の対象となっていました。

 

デモに駆り立てられた理由は他にもありました。法王が9月21日に米下院人権問題小委員会で和平五項目案を提案したことに対する中国政府によるダライ・ラマ法王への批判です。法王が提案した和平案は以下の五つの項目でした。

 

1・チベット全土を平和地帯に変える。

2・民族としてのチベット人の存在そのものを脅かす中国人の人口移住政策の廃止。

3・チベット国民の基本的人権並びに民主的自由の尊重。

4・チベットの自然破壊の回復と保護並びに、核兵器生産にチベットを利用することを止め、核廃棄物の処理場とすることの禁止。

5・チベットの将来の地位並びに、チベットと中国国民の関係についての真剣な話し合いの開始。

 

法王がこの和平案を提案すると、中国政府は躍起になってダライ・ラマ法王への批判をはじめました。

「分裂主義者のダライが母国中華人民共和国を西欧諸国の資本主義帝国、反中国勢力とぐるになって分裂させようとしている」

「それはチベット人の意志にも利益にも反した考え方であり、チベット人はそんなものを望んでいないどころか、真っ向から反対している。二度とダライ一味の下の封建時代に戻りたくはないからである」

テレビでもラジオでも新聞でも言葉の限りを尽くして、法王を批判し始めました。あまりにもその語調が断定的で強かったので、このままチベット人が何も行動を起こさなければ、中国のプロパガンダが鵜呑にされてしまう恐れがありました。チベット人は今のまま「母国」中国に満足していて、ダライ・ラマ法王など認めはしないというプロパガンダがそのまま受け入れられていくのは、もはや耐えられなかったのです。

 

ダライ・ラマ法王を信仰していないチベット人などいません。あれほどの時間、あれほどの脅威をもってしても、中国はチベット人から法王への信仰をもぎとることなどできませんでした。私は生まれてからダライ・ラマ法王に一度もお逢いしたことはありませんでしたが、法王への信頼、帰依は固く持っていました。法王がなされることの全ては法王の独善ではなく、チベット人すべてのためと思ってなされているということは自明の事実でした。仏教徒である以上、法王への帰依は否めません。なぜなら、チベットの民を救うために遣わされた観音菩薩の化身、その人なのですから。

 

独立要求デモを行った結果、たとえ命を失ったとしても悔いはありませんでした。中国のプロパガンダに拮抗するためには、命を掛けても自分たちの思っていることを主張する必要がありました。我々はダライ・ラマ法王を支持するのであって、中国政府を支持するのではないと声を張り上げなければならないのです。デプン寺に戻ってきた老僧たちから、1959年の蜂起以来チベットに何が起きたかを聞いたことがあります。老僧たちはみな刑務所や労働キャンプで何十年もの時を過ごし、生き延びてきた者たちでした。どれほどの命が拷問や銃殺、飢餓によって失われていったかを老僧たちは静かに教えてくれました。デモを行えば、その場で撃ち殺されるか、さもなければ監獄で拷問死するに違いありません。しかしたとえそうだとしても、私たちはデモを敢行せねばならなかったのです。チベットに生きるチベット人たちもダライ・ラマ法王の和平案を支持していると外に伝えるためにも――。

 

法王のテープの中でとても強く印象に残っている言葉があります。

「チベット人ひとりひとりがそれぞれの責任を果たさなければならない。私は私の責任を果たそう。だが、私一人ではどうにもならないこともある。皆がそれぞれの責任を果たすとき、世の中は変わるであろう」

私はこの言葉を何度も何度も自らに問いかけてみました。どの国に生まれようと、きっと人にはそれぞれ果たさなければならない責任があるでしょう。チベット人としての私の責任とは何か?その答えをめぐって悩み続けました。

 

長い論議の末、親友であるガワン・プルチュンと私の2人で独立要求のデモを行うことに決めました。それぞれが何人かの腹心に声を掛けることで人を集めることにしました。

デモは強制的なものではありませんでした。気持ちが変わったり、怖くなったりした場合はいつでもやめていいということになっていました。チベット国旗が三つ作られました。仲間の一人がチベット国旗の写っている古い写真をもっており、それをまねて即席の国旗を作ったのです。スローガンが書いてあるプラカードも欲しかったのですが、皆が一度に集まって題を議論する時間はなく、用意することはできませんでした。

 

26日の夜に密かに集まり次の日にデモを敢行することに決めました。27日は日曜日だったからです。日曜日のラサのバルコル(ラサの大本山ジョカン寺をまわる右繞道)は大変な人出で賑わいます。門前市になっていて、チベット中からの巡礼者や日用品を買うラサの人々で溢れます。デモはできるだけ人目を引かねばと思っていました。その夜、寺の本堂をひっそりと開けて、仲間で中に入り祈りました。どんなことがあっても中国に屈しないことを誓いあい、そして、デモの成功を護法尊へ祈りました。

 

翌朝7時に寺の門のところに21人が集まり、バス停へと向かいました。ガワン・プルチュンはもし拷問に耐えきれなくなったら、このデモの首謀者は自分だといってくれ、かばうことなんかないと言いました。私も同じことを皆に言いました。拷問に耐えきれなくなったら、まよわず私の名前を言って欲しいと。他にも何人かが同じことを言いました。早朝でバスが運行されていなかったため、2台のトラクターに分乗してジョカン寺へと向かいました。トラクターの荷台で、たとえ中国人が手をあげても我々は決してやり返したりしまいと話しました。デモはあくまで非暴力的なものでなくてはいけません。法王は非暴力を説いています。暴力では勝者をもたらさない。両方が負者なのであると。暴力はさらなる暴力を産み、その結果終りのない苦しみだけが続く。たとえどんなに時間が掛かろうが、非暴力で我々はチベットの自由を勝ち取らねばならないのだと確認しあいました。

 

ラサに着くと、早すぎたためバルコルは人もまばらでした。少し待とうということになり、私たちはお茶を飲むため、食堂に入りました。不思議に怖くはありませんでした。とても穏やかな心境でした。最後のチベットのバター茶なるかもしれないと思い、お腹いっぱい悔いの残らぬように味うべきだとふだんより何杯も多めに飲んでしまいました。

 

 

11時になるのを待って、バルコルに飛び出すとデモを始めました。ジョカン寺の正面からチベット国旗を高く掲げて、右回りにスローガンを叫びながらバルコルを回りました。「チベットに独立を!ダライ・ラマ法王万歳!中国人は中国へ帰れ!」と叫びながら歩く私たちを、最初人々は呆気にとられて見ていました。バルコルをまわるうちに人垣はどんどん大きくなり、一緒にまわる者もでてきました。たくさんの人が泣いていました。ある老婆は、近づいてくると「お坊さんたち、本当にありがとう。ずっとずっと言いたかったことを言ってくれて」と涙を流しながら手を合わせるのでした。警官がちらほら出てきましたが、逮捕するのでもなく、ただ遠巻きに眺めているだけでした。

 

バルコルを3周まわった後に、チベット自治区区役所へと向かいました。警官の数が目立ってくるようになりました。区役所の門の前に到着するやいなや、警官たちが私たちの周りを囲み、あっという間に逮捕され、グツァ拘置所に連行されました。そこでまず身体検査を受けると一人づつ留置部屋に入れられました。翌日から尋問が始まりました。もちろん殴られましたが、私の場合はそれほどひどく殴られませんでした。ですが、仲間の二人はひどく殴られたようでした。食事は一日に二度、床の上に蒸しパンが乱暴に投げ込まれるだけでした。私たちがデモをした4日後の10月1日、今度はセラ寺の僧侶たちがデモを行いました。今回は多くの市民も巻き込んで大きなデモに発展し、3人の犠牲者がでました。1人の僧侶と2人の市民が銃で撃たれて即死したのです。市民たちは警察署に連行された僧侶たちをみると、警察署に投石を始めたそうです。そして警察署に火をつけると僧侶たちを助け出すために燃える建物の中に飛び込んだのです。警官たちは市民に銃を向けました。デモが収まった後に、全ての外国人が国外退去を言い渡され、ラサは外の世界から全く孤立してしまいました。多くの逮捕者がでましたが、4カ月間の勾留の後、パンチェン・ラマが仲裁してくれたおかげで、私を含めた政治囚全員が釈放されることになりました。パンチェン・ラマは翌年の1988年に突然亡くなってしまうのですが、それまでは私たち政治囚のためにできる限りの便宜をはかってくれたのでした。

 

     二度目の逮捕

 

釈放されると間もなく、デプン寺でデモの仲間21人のうち幾人かが集まり、密かに政治グループを結成しました。国連の「世界人権宣言」をチベット語に訳して人権について学んだり、独立を要求するポスターを作りました。また、自分たちで人権尊重と民主主義を謳う新チベット憲法「チベット民主憲章」を作成し、印刷したものを密かにラサ市民へ配りました。

 

政治活動を始めて約一年が過ぎた1989年3月5日、寺に突然公安警官たちが現れ、私たちは逮捕されました。数ヶ月、グツァ拘置所で勾留された後、懲役6年の判決を受け、ダプチ刑務所で服役しました。拷問は二度目の逮捕の方が激しかったといえます。どんなふうに拷問されたかを一つ一つ語ることはできません。拷問は監獄生活の一部で、めずらしいことではなかったからです。電気棒による電気ショックの拷問も幾度も受けました。そのうち一度は数珠を隠し持っていることが見つかったときでした。あのときは、口に電気棒を押し込まれて、10分くらい電気ショックを受けました。痛いどころではありません。そのまま気を失ってしまいました。そして確か1991年の10月のことだったと思います。独房に入れられた仲間を出してくれるように嘆願したところ、動けなくなるまで殴られたことがあります。そして同じように独房へ約一月入れられました。独房というのは普通の監房ではありません。看守たちは何かあるとすぐに囚人たちを独房に入れましたが、それは私たちにとって拷問と同じように辛い体験でした。独房の広さは両腕を伸ばすので精一杯の幅で、薄暗く冷たい部屋には窓一つありません。食事は扉の下のほうにある小さな小窓から投げ入れられるようになっていました。狭い独房内にあるのは蛇口がひとつと排泄用の穴がひとつ、もちろんトイレもベッドもなく、夜は自分の排泄物が流れる穴の横で冷たいむきだしの床の上でまるくなって眠るのでした。寒い冬には薄い囚人服一枚で、凍え死なないように、一晩中体を動かして過ごさなければなりませんでした。独房の天井には格子戸があり、囚人たちが自殺を図らないよう、看守たちがときどき上から覗いていました。

 

ロープで天井からつり下げられたまま、何時間も殴られたこともあります。彼らは手に握れるものは何でも使って殴るのでした。棍棒、ロープ、ベルト、鉄のパイプ。気を失う度に頭から水を掛けられました。銃床で目の脇を激しく打ち据えられたこともあります。一月ほど腫れがひかず、目もよく見えませんでした。

 

私に割り当てられた仕事は、ビニールハウスでの野菜栽培でした。日中はどんどん温度があがる上に肥料として人糞を使うので、耐え難い臭いが充満していました。それぞれノルマが決められており、それを達成できなければ、拷問を受けたり、刑期が延ばされたりするのです。夏はあまりの暑さと肥料として使う人糞の臭いと農薬の臭いで貧血を起こし、倒れこむ者も少なくありませんでした。看守たちはそんなときでも休ませたりはさせず、無理やり叩き起すのが常でした。

 

仕事の少なくなる冬場には運動と称して、刑務所内をランニングさせられたり、軍隊訓練のようなものをさせられたりしました。直立不動の姿勢で何時間も立たされ、腕立て伏せや地面を這う練習までさせられました。そういった訓練は労働よりも肉体的にこたえました。夜は学習と称した共産思想を学ぶ集会がありました。自分たちが行った独立要求のデモは誤りであったこと、祖国中国とチベットは昔から一つの国であること、分裂しようという試みは封建主義の支配に戻ること以外の何ものでもないと説明されました。解放し、祖国中国への復帰を助けてくれた人民軍と中国政府に感謝しなければならない。ダライ・ラマは何代にも渡って搾取し続けていた分裂主義者であると。テキストは人民日報の記事などが使われ、黙って聞いているだけでは許されず、討論などもしなければなりませんでした。それでも、あんなにも集会に出席したというのに、それに「教化」された者は一人もいませんでした。

 

     釈放

 

6年の懲役を終えて1995年に釈放されましたが、寺に戻ることは許されませんでした。しかたなく、ラサで仕事を探してみましたが、店舗を構える商店のほとんどは中国人によって経営されており、私を雇ってくれそうなところはまったくありませんでした。もちろん、政府関係の仕事に就くことはできません。私はバルコルに露店をかまえ、ツァンパ(麦こがし)や小麦粉を売ったりするようになりました。

 

しばらくすると、インドに行ってダライ・ラマ法王に一目お逢いしたいという思いに駆られるようになりました。出家して以来の夢だったのですが、法王の存在は刑務所の中での唯一の救いでした。痛みや寒さで眠れない夜、重労働の日々の中で、法王だけが心のよりどころでした。一体幾度、法王へ祈ることで乗りきることができたことか。法王に逢いたいという思いは、日増しに強くなり、とうとう2000年の冬にこっそりとラサを脱出し、インドへと向かいました。標高5700メートルの峠を越え、雪に腰まで埋まりながらヒマラヤを歩き、3週間後にネパールの首都カトマンドゥを越えました。刑務所での仲間も一緒でした。

 

ダラムサラで初めてお逢いした法王は本当に素晴らしい方でした。私たちは刑務所での様子を伝えようとしたのですが、涙が止まらず、言葉も途切れ途切れになってしまいました。それでも、法王はじっと耳を傾けて下さいました。謁見は二時間にも及びました。

 

私の思いはいまだチベットにあるようです。共に捕まった10人のデプン寺の仲間のうち、5人がまだ刑務所にいます。ガワン・プルチュン(懲役19年)、ジャンペル・チャンチュプ(懲役19年)、ガワン・ウーセル(懲役17年)、ガワン・ケンセル(懲役17年)、ジャンペル・ロセル(懲役10年)。仲間の一人だったケルサン・トゥトップは、拷問により亡くなりました。懲役18年を受けて服役中でした。1996年7月3日の夜、尋問室に呼び出され、二時間後に一言も口がきけない状態となって部屋に戻ってきたそうです。顔は別人のように腫れ上がり、全身に打撲の跡が見られました。まもなく病院に移送されましたが、翌朝4時に亡くなりました。自分のことよりも他人のことをまず思いやることができる優しい人でした。チベットのために何かしたい、何かしなければと本気で思っている人でした。

 

チベットはどうなるのでしょうか。亡くなった仲間たち、まだ刑務所にいる仲間たちが酬われる日が来るのでしょうか。このまま彼らの存在が闇の中へと消されてしまったら、彼らの痛み、悲しみは一体何のためだったのでしょうか。





ソナム・ドルカ (32才)】【尼僧ガワン・ワンドゥン (22才)】【ジャンパ・プンツォク(71才)】【僧侶バグド (31才)
尼僧ナムドル・テンジン(29才)ダムチュ (34才)】【ロプサン・タシ (30才)
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