チベット証言集

The case of Namdol Tenzin

 

ソナム・ドルカ (32才)】【尼僧ガワン・ワンドン (22才)】【ジャンパ・プンツォ(71才)】【僧侶バグド (31才)
尼僧ナムドル・テンジン(29才)ダムチュ (34才)】【ロプサン・タシ (30才)
ジグメ・ギャンツォ (30才)】【ガワン・ジャムチェン (31才)


*この証言はダラムサラに亡命しているチベット難民にインタビューしたものを日本語訳したものです。

■ナムドル・テンジンの証言

 

◆出家
 

 私は、1970年、首都ラサより北へ車で三時間程行った小さな村で生まれました。私には姉と二人の弟がいます。学校には4年間、村の人民小学校に通いましたが、それ以上の教育を受けられる学校は村にはありませんでした。私の育った村だけのことではありません。通うのに何時間も掛る上の学校に行くチベット人はほとんどいません。家庭には寄宿して通わせる余裕もありませんし、親は子供たちに中国語や共産主義を学ばせたいとは思わないからです。学校を卒業すると私も他の子と同じ様に両親の農作業を手伝いながら過ごしました。
 

 出家を決意したのは14才の時のことです。ある有名な高僧が村を訪れたことがきっかけでした。私は高僧が来ていると最初に聞いたとき、一目お会いしたくて、いても立ってもいられないような感情に襲われました。そして幼馴染みの友達と一緒にすぐさまその高僧を訪ねたのです。高僧はその皺が深く刻まれた顔に笑みを一杯に浮かべて、私たちを迎え入れてくれました。柔和な笑みの中にも威厳が漂っていて、その凛とした姿に私は強く打たれてしまいました。高僧に向かい合うと私はすぐに出家を申し出たのです。高僧は喜んで承知して下さいました。そして出家の儀式を済ますと、髪をその場で落としてくれました。家に帰るとあまりに突然のことに両親は驚きましたが、反対はしませんでした。昔からチベットでは子供を出家させることは徳を積むことであるとみなされているからです。
 

 当局から許可が出るまで2年ほど掛りました。それまで家で農作業をしながら待っていました。そして16才になった年にようやく尼寺に入るためにラサに向かうことが出来たのです。ラサのツァムクン尼寺に入りました。その尼寺には120人程の尼僧がいましたが、皆とても親切にして下さったので不安は全くありませんでした。
 

 寺の本堂は1959年に中国共産党により破壊されていたため、かつて尼僧の宿舎だったところはほとんど民家に変わってしまっていました。中庭にも民家代わりのバラック楝が建てられていたため、大部分の尼僧は近くの民家を借りて生活していました。中国共産党政府によって制限された範囲内でしたが、しばらくは静かな信仰の日々が続きました。けれども、私の意識を変えたある事件が起こったのです。
 

◆独立要求のデモ
 

 1988年3月5日は大祈祷法会の最終日でした。その朝、ラサ大本山(ツクラカン)には三大寺の僧侶がほぼ集まり、彌勒菩薩勧請の儀式が執り行われていました。二万人の市民が周囲に詰めかけており、私は寺のすぐ近くにいました。予定通りに儀式が終わり、寺の外では香が焚かれ、最後の供養会の歌声が和やかに辺りに響き渡っていました。だが、突然穏やかな雰囲気が打ち破られました。供養会を見守る群衆の中から、ガンデン寺の僧侶たちが一斉に立ち上がりこぶしを高く掲げ「チベットに自由を!」と叫んだのです。周囲はざわめき、私は最初何が起きたのか把握できませんでした。すぐに御堂の近くへと走り寄り、群衆を掻き分けて様子を覗き込みました。そして、「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳!」と声高に叫び続ける僧侶たちの姿を目にしたのです。ほとんど全ての僧侶たちが彼らに声を合わせ、周囲はいつの間にか熱い独立要求の叫びに満たされていました。
 

 もっと様子を知ろうと私は寺の二階の回廊へと掛け上りました。すると一人の若い僧侶がうずくまっていたのです。目を押さえた彼の手はすでに血みどろになっていました。警官から目を殴られたらしく、夥しい血が流れ出ていました。私は即座に袂から布きれを出し、これで手当をしてくださいと声を掛けました。しかし、手を払うと彼は再び起き上がり「いや休んではいられない。チベットのため、ダライ・ラマ法王のためなんだ。今こそ中国支配から立ち上がらねばならない。」と言うと階下へと走り降りて行ったのす。『中国支配からの独立』、今までに聞いたことのない言葉でした。ひどく傷を負いながら、それでも立ち上がっていく僧侶の姿から、私は彼らの強い決意と事の重大さを知りました。そして私も僧侶の後を追って寺を回る右繞道であるパルコルへと飛び出したのです。
 

 パルコルは独立を叫ぶ溢れんばかりの人々で一杯でした。私もすぐに「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳!」と叫ぶ僧侶達の集団に加わりました。皆嬉しくてたまらない様子でした。今までの抑圧から溜まった鬱憤が一度に吹き出たように、私たちは声高に叫び続けました。
 

 まもなく2000人の武装警官が到着すると、私たちに向けて催涙弾を発射し鎮圧し始めました。強い痛みが目を刺し、すぐさま私たちはパニック状態になってしまいました。それでも叫び続ける私たちに警官隊は、容赦なく実弾の嵐を浴びせたのです。彼らは生きている標的に狙いを定め、次々に打ち倒していきました。沢山の人が銃火に傷つき、何百人の僧侶が軍のトラックに引きずり込まれ、殴られ連行されて行きました。おぞましい光景に私は我が目を疑い、ただ呆然と立ちすくむばかりでした。すると突然大きな石が目の前に落ちてきて、年老いた僧侶が下敷きとなってしまったのです。腰の骨が折れてしまったらしく僧侶は激しい痛みに呻き続けていました。我に返った私はもう必死で石を掴むと警官に投げつけました。けれども重装備で銃を手にした警官を前にはまるで歯が立ちませんでした。ツクラカンの御堂に逃げ込んだ僧侶達にも無差別に実弾が発射され、御堂が血の海の地獄と化したと誰かが叫んでいました。中国との衝突は夕方六時頃ごろまで続きました。私は暗くなってから俗人の女性の服に着替え、厳戒な警備の目を潜り抜けて寺へ戻りました。
 

◆自由への模索
 

 大祈祷法会の日から私たちの活動は始まりました。インドに亡命したチベット人からダライ・ラマ法王の講話のテープを密かに入手し、尼僧たちと夜中にこっそり聞きました。人への優しさ、慈悲を説くダライ・ラマ法王は今までの中国のプロパガンダとは全くの別人でした。全ての有情のために悟りを求め、他を助けながら生きるという菩提心を説くダライ・ラマ法王に初めて触れ、尊敬の念が込み上げるのを押さえることは出来ませんでした。家でも村の学校でもダライ・ラマ法王のことが話題に上ることは決してなかったからです。人々は中国共産党による仕打ちを恐れて、ダライ・ラマ法王に対する信仰を決して表に出すことはしませんでした。子供の頃、祖父が夜中にひっそりと仏壇を開けて灯明を灯していたのを今でも覚えています。信仰を持つことは否定されていた時代でした。今では一応認められていますが、ダライ・ラマ法王に対する信仰は許されていません。チベット人でありながらダライ・ラマ法王に対する信仰を表明することが出来ないことは、信仰が許されていないに等しいのです。
 

 私はダライ・ラマ法王が外国にいることは知っていたけれども、共産党の侵略によって亡命を余儀なくされたということは知る由もありませんでした。インドで亡命政府を構え、仏法を守り、独立運動を行っていると知ったのはデモの時が初めてだったのです。
 

◆警察からの脅し
 

 デモの後、私たちの寺ではダライ・ラマ法王の写真を堂々と仏壇に飾り、毎日水や供物を捧げお経を唱えました。自分達でデモを組織して何度かラサ大本山(ツクラカン)の広場にも行きました。大祈祷法会に起きたデモの後、小さなデモが頻繁に起きていました。ほとんどは僧侶や尼僧によるものでした。
 

 次第に僧院に対する警戒が厳しくなってきていました。私たちは尼僧の姿だとすぐに身元がばれると思い、俗人の服を着てデモを行いました。独立のスローガンを叫び、パルコル(右繞道)を回り始めると多くの市民が合流してくれました。警官隊はいつもすぐに駆けつけ、殴る蹴るの暴行の末、連行して行きました。あるときは警告なしに実弾が浴びせられ、仲間の僧侶が打ち倒されたこともあります。私は運良く逃げることが出来ていたけれども、疑いを持った警察は毎日のように寺にやって来るようになったのです。
 

 デモの時の写真を突きつけ、「これはお前だろう。もう分かっているんだ。白状しろ。」と何時間も尋問し続けました。決して認めない私たちににしびれを切らした警察は、次に矛先を寺の座主である老齢の尼僧に向けたのです。「お前が弟子をきちんと躾なかったから、あんな悪い奴等になったんだ。尼僧たちに白状させなければ、お前を牢獄にぶち込んでやる。」連日のように続く脅迫と嫌がらせは、座主を心労で衰弱させ、ついに死に追い詰めたのでした。

◆パンチェン・ラマの死 
 

 1989年1月28日、チベット第二の活仏パンチェン・ラマ十世は不自然な状況の中で突然死去しました。50才の若さでした。心筋梗塞で倒れたと発表されていましたが、そのまま信じることは出来ませんでした。私たちは中国政府に対する強い懸念を示したビラをラサ大本山(ツクラカン)前で配りました。何故ならパンチェン・ラマはその死の数日前に公の場で中国政府に対して批判的な演説をしていたからです。「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。」とパンチェン・ラマは言明し、それは「二度と繰り返してはならない一つの過ち」だったと述べました。阿弥陀仏の化身であり、ダライ・ラマ法王に続く第二の精神的指導者はその半生を九年八ヵ月の刑務所の独房での生活と15年間に及ぶ自宅軟禁を通して、中国政府によってチベット支配のために利用されたのです。パンチェン・ラマが言及した「大きな代価」とは、五一年の共産党軍の侵略から始まったチベットでの数々の悲劇を意味します。半世紀近くに渡って繰り返されてきた数多の殺戮、破壊、そして踏みにじられたチベット人の信仰心。パンチェン・ラマはこの遺言ともいうべきスピーチをした五日後、寝室で心筋梗塞で倒れ、約15時間後死亡しました。パンチェン・ラマの葬儀はシガツエのタシルンポ寺を中心にチベットの全ての寺で執り行われました。チベット人のほとんどは、彼が暗殺されたと信じています。
 

 私たちが、パンチェン・ラマ暗殺疑惑についてのビラを配った数日後のことでした。夜九時、寺の門を締めようとしていた時、一人の男がバイクで近づいて来たのです。人民服を着、人民帽を目深に被った男は私の傍まで来ると封書を渡し、すぐにそのままバイクで走り去って行きました。言葉を交す間もありませんでした。いぶかしく思いながらも開けてみると、封書の中にはチベット国旗の絵が上に書かれたダライ・ラマ法王の独立の声明文のコピーが数十枚も入っていたのです。私はびっくりしてすぐに仲間の尼僧のところへ駆けこみました。どうしたものか悩みましたが、きっと独立運動組織の人であろうと思い、信用することにしました。そして私たちはその夜、国旗に白、赤、黄、青の色を塗り、夜明け前にラサ市街の目立つ所に貼りました。朝には寺に警察がやって来ましたが、私は寺の中にも貼ったそのビラを見て驚くふりをしてみせました。
 

◆監獄での体験
 

 疑いを抱いた警察の嫌がらせは終わることを知りませんでした。けれども私たちはどんな脅しにもめげませんでした。しかし、警察は私たちに、もう二度と独立運動はやらないという念書を書くか或いは牢獄行きかと迫ってきたのです。もちろん私は念書を書くことを拒否しました。捕まるのは覚悟の上でした。
 

 九〇年の正月を前にしてほとんどの尼僧は実家に帰されましたが、私ともう一人の尼僧だけは寺に残されることになりました。そして数日後、私たちは警察から「明日三時、大事な集会があるから区役所に来い。」と告げられたのです。次の日、言われた通りに区役所に行くと、集会所に連れていくと言われて車に乗せられました。けれども、到着した所はなんとグツァ刑務所だったのです。そして「もうお前たちは手の内だ。これで俺たちのやりたい放題だな。」と彼らはせせら笑い、私たちを蹴飛ばしたのです。刑務所の鉄条網が張り巡らされた高い塀の中に放り出され、私はあまりに突然のことに途方に暮れてしまいました。集会だとばかり思っていたので、部屋の鍵すら掛けずじまいだったのです。
 

 トイレ用のバケツが置かれただけの狭い独房に入れられ、その日からすぐに尋問が始まりました。誰がこのビラを書いたのか、どんな独立組織と関係があるのか、誰が扇動してデモに行かせているのかと執拗に聞く尋問は、日に三回も行われました。ダライ・ラマ法王の声明文を貼ったり、パンチェン・ラマ暗殺疑惑のビラを配ったのは私たちであることを突き止めているようでした。黙秘を続ける私を彼らは、警棒、電気棒、鉄の鎖等で容赦なく殴り続けました。もう一人の尼僧は発電器に直接結び付けたワイヤーで両手の親指を縛られ、電流が流されました。彼らは大量の鼻血を出して気絶した彼女に処置も施さず、何日も放ったままにしたのです。今も彼女の親指には、その時の電流による火傷の跡がくっきりと残っています。
 

 どんなに殴られても、彼らが目の前に突きつけて尋問するダライ・ラマ法王の独立の声明文が私を勇気付けました。ダライ・ラマ法王の直筆の文字をみつめながら、罵倒の声にも殴られる痛みにもじっと絶え続けました。私は気を付けて、署名の際には必ず拇印で済ましていましたが、署名をしてしまった別の尼僧は不幸にも筆跡がビラの筆跡と一致してしまいました。彼女は散々拷問を受け痛めつけられ、最後には気が狂ってしまいました。
 

 尋問に費やされる時間以外は、労働を強いられました。私に与えられた仕事は汚物を畑に肥料として散布することでした。日に三度、小さなパンとお茶しか与えられないわずかな食事のため常に空腹感は癒されず、殴られたせいで体中が痛みましたが、厳しい監視のため決して休息することは許されませんでした。両手に中国人の糞尿が入った重いバケツを提げ、監視人に追い立てられながら畑の間を行き来しても、決して悲しみに押し潰されたりはしませんでした。何故なら、心の中にはダライ・ラマ法王が居続けていてくれたからです。ダライ・ラマ法王が希望という光を与え続けてくれる限り、私はたとえどんなに状況がひどくても、心に喜びと優しさを保つことが出来たのです。一切の宗教活動は禁止されていたけれども、私はいつも胸の中で経文を唱え続け、ダライ・ラマ法王に祈り続けていました。
 

◆束の間の釈放
 

 私は半年後に釈放され、村に帰されることになりました。半年間、どんなに辛い目にあっても私は決して仲間の名前を言ったり、デモに行ったことを認めませんでした。本当に釈放をされるのか信じられない気持ちと不安で一杯で、それは釈放の日になっても消え去りませんでした。
 

 家に戻った私は村人全員から歓迎されました。白い絹を捧げて私の家を訪ねてくる村人の列は夜遅くまで絶えることがありませんでした。年老いた両親は私を強く抱きしめてむせび泣き、幼い弟たちも飛びついてきて、いつまでも離してくれませんでした。村人たちも私の無事を確認しては涙に暮れました。
 

 しかし、そんな夢のような日々はすぐにぶち壊されてしまったのです。釈放から四日後、再び警察が私を連行しに来たのです。私は薄々気付いていたので驚きはしませんでした。チベット独立組織との関係を疑っている警察が、私を一時的に外に出して、彼らと連絡を取り合うのを待っていることに気付いていたのです。彼らが私を家に帰したのは、仲間との接触を見るためだけだったのです。家に保管してあった大事な文書等はすでに安全なところに預けていました。しかし、家族にとってはあまりにも酷過ぎました。半年間も心配し続け、ようやく返してもらった筈の娘が再び連行されることになったのです。父親は感情的になったあまり、中国人に罵詈雑言を浴びせました。弟たちはまるで赤子のように泣きだし、母親は泣き崩れました。 
 

 村人たちが大勢集まる中、警察は私を銃でせかしました。「こいつは、本当に恥知らずの極悪人だ。この尼は人間以下の最低な奴だ。お前たちもこいつの家族と付き合うとろくな目にあわないぞ。」警官はそう言うと、うなだれ泣き続ける親に向かって唾を吐きつけたのです。両親は心底打ちのめされ、涙はいつまでも止みませんでした。私は泣き続ける両親の前に立つと話しかけました。「一体何で泣く必要があるの。私は犯罪を犯して捕まったんじゃない。ダライ・ラマ法王のために独立の声をあげただけなのよ。亡命先で独立運動を続けるダライ・ラマ法王が早くチベットに戻ってこれるようになるため、チベットで苦しみ続ける人々が解放されるためなのよ。そのために監獄に入っても、私は少しも悲しくなんかない。いや、嬉しいわ。お父さんも、もう泣かないで喜んでちょうだい。お母さんも弟たちも喜んで見送ってちょうだい。」私はそう言って微笑み掛けました。これが私の出来る精一杯のことでした。しばらくすると、父親も母親も泣くのを止めてくれたのです。「私たちも、お前が監獄に入ることになって嬉しいよ。誇りに思うよ。もう嘆くのはよそう。家のことは心配しなくてもいい。みんな大丈夫だから。」
 

 私は警官に小突かれながらジープに乗せらました。連行されていく私を皆が手を振って見送ってくれました。私も笑顔で手を大きく振り返しました。道で擦れ違う村人もジープの後ろに乗せられた私の姿を見つけると手を振ってくれました。畑の中からも人々は農作業の手を休め、手を大きく振ってくれました。村人たちは 私を乗せた車が遠く見えなくなるまで手を振り、見守り続けてくれました。再び刑務所に連れ戻されるというのに、私の心は何故か喜びに満ち溢れていました。

◆二度目の刑務所
 

 グツァ刑務所に戻ると、私はすぐに身ぐるみ剥がされ、裸にされました。脱がされた僧衣の代わりに囚人服が投げ与えられました。何人もの警官や監視人に取り囲まれました。「お前には懲役三年の判決が決まった筈だったが、脱獄でもしていたのか。」私はただ黙っていました。そして、監視人の一人が私に近付くと「よう、しばらく見なかったな。どこに行ってたんだい。」とからかって笑ったのです。彼らはおかしくてたまらない様子でした。「自分たちが家に帰し、自分たちで連れて来たんじゃないの。」私がそう言い返すやいなや、監視人は怒って頭をしたたかに拳で殴りつけたのです。床に倒れ込んだ私の肩を掴み、起き上がらせると、再び顔を殴り床にたたきつけました。もう起き上がることの出来ない私を激しく蹴りつけながら「起きろ」と怒鳴る声が聞こえました。怒鳴り声が続く中、私はどうすることも出来ず、次第に意識が薄れて行きました。
 

 以来、私ははずっと激しい頭痛に悩まされ続けました。頭が割れるような痛みに一睡も出来ない日が続きました。朦朧とする意識に、さらに追い打ちをかけるように鎮痛剤だと言って睡眠薬が与えられたのです。私はそれとは知らず飲み続けたため、思考力が無くなり、情緒不安定になって食事も喉を通らなくなりました。歩くことも話すこともままならず、床を這って用を足しに行かねばなりませんでした。チベット人の医師が薬に気付き、危険すぎると言ってやめさせてくれるまで、それは何週間も続いたのでした。
 

 痩せこけ、起き上がることも出来ない私を面倒に思ったのか、中国人たちは私を両親に引き渡すことに決め、両親に今までの食費を請求しました。食費として請求された五百元(約六千円)もの大金をどうして田舎で細々と農業を営む両親が払うことが出来るでしょうか。私は「このまま刑務所にいます。」と訴えましたが、両親はお金を借りて、なんとか工面すると刑務所に私を迎えにきました。
 

◆インドへの亡命
 

 二ヵ月ぶりの家でした。けれども、体が治れば再び連行されることは明らかでした。徐々に回復に向かうにつれて、新たな不安に駆られるのでした。幾日もベッドの中で思い悩みました。両親にこれ以上の心配を掛けたくない、そう思うとこのまま家にいるのが辛く感じてきました。私は亡命することを決意しました。彼らの追手から逃げるためでもありましたが、なによりもこのチベットの悲惨な状況を外へ伝えたいと思ったからです。家族と別れるのは悲しいことでしたが、また連行されて心配を掛けるのはそれ以上につらいことでした。家に戻ってから二週間も経たないのに、私は夜中に密かに家を抜け出ました。迷惑が掛かるのを恐れて、家族の誰にも言わずじまいでした。寒い12月のことでした。事実10日後に、警察は私を連行するため再びやって来たのです。
 

 途中で前もって連絡を付けていた仲間と落ち合いました。全部で14人、そのうち女性は6人でした。私たちの逃避行は辛酸を極めました。険しいヒマラヤを腰までの雪を掻き分けながら一歩一歩辿りました。人目を避けて夜中に歩かねばならなかったため、何度も道に迷いました。途中で食料が切れてしまい、何日も絶食して歩き続けたこともありました。けれども、ダライ・ラマ法王にもうすぐ逢えるという思いが私たちを奮い立たせてくれました。約一ヵ月後、ネパールの首都カトマンズに辿り着いた時には、私は凍傷でほとんど歩けない状態でした。そして一ヵ月間の入院生活の後、ようやくダラムサラに辿り付くことが出来たのです。
 

◆ダライ・ラマ法王との謁見
 

 ダラムサラに着いて数日後、新しく亡命してきたチベット人のみを集めた、ダライ・ラマ法王の特別の謁見に私は呼ばれました。何年も待ち焦がれた日がようやく現実となったのです。
 

 ダライ・ラマ法王は、にこやかな表情で私たちの前に現われました。すぐさま私を含めた40人の新参者は皆、やっと御会いできた嬉しさで泣きだし、会場はむせび泣く声で一杯になってしまいました。私たち一人一人に暖かい労いの言葉を掛け、チベットでの状況を尋ねるダライ・ラマ法王。心の中でしかお会いしたことがなかった法王は、本当にお優しく素晴しい方でした。チベットではダライ・ラマ法王に一目でもお会いすれば、来世の幸せが約束されると信じられています。私の順番が近づいていました。ところが、私は感激し気が高ぶったのと長い逃避行の疲れのせいでひどくなっていた頭痛のため、気が遠くなりその場に倒れ込んでしまったのです。すると、ダライ・ラマ法王は即座に駆け寄って下さると、私を胸に抱きかかえて優しく介抱して下さったのです。「もう安心していいのだよ。何も心配することはない。あなたの言わんとする事は十分承知しているから。チベットでは大変な目にあったね。私は良く知っている。今は病気を治すことが先決だ。焦らず、ゆっくりと養生するといい。」ダライ・ラマ法王はそうおっしゃると、病院の手続き等を周りに指示していらっしゃいました。私はダライ・ラマ法王の腕に抱きかかえられたまま、夢のような出来事に嬉しさのあまり、泣き続けていました。今までの苦しかった事、怖かった事が思い出されました。もう大丈夫なのだ、今までの行為が報われた、本当に救われた、そう何度もつぶやきながら、私はしばらくダライ・ラマ法王の暖かい手を強く握り締めていました。



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